2023年09月14日(木) 12:00 53
羽田空港のラウンジでこの稿を書きはじめた。平日とは思えないほど人が多い。コロナ禍前の日常に戻りつつあるようにも感じられるが、まだまだの部分もある。
今も接客をする人の大半や、道行く人の5分の1ほどがマスクをしているし、数日前にはワクチン接種の案内が届いた。今月20日以降に接種できるらしく、もし打てば私は5回目になる。反ワクの人間に「だからあいつはおかしなことを書くんだ」と言われるかもしれないが、ワクチンのせいにできるなら、むしろありがたい。新たな変異株も出てきたことだし、自分も「免疫の壁」の一部となるために打っておくべきなのか。
秋競馬が開幕した。9月10日の日曜日、リーディング争いをしている川田将雅騎手が韓国に遠征し、リメイクでコリアスプリント、クラウンプライドでコリアカップを制した。その前日の土曜日、9月9日は阪神で4戦して1勝、2着3回。9日終了時でJRAでの勝率が3割1分6厘、連対率が4割9分、3着内率が5割8分7厘と、相変わらずとてつもない数字になっている。本稿の読者には言わずもがなかもしれないが、騎手の勝率は2割行けばかなりいいほうで、プロ野球の3割打者に相当するレベルだ。勝率3割以上の騎手は、4割バッター級とも言える。
馬の数もレースの数も少なく、「大尾形」と呼ばれた尾形藤吉厩舎に強い馬が集まった戦前、戦時中には、尾形自身(当時は調教師もレースで騎乗することができた)が3割9分7厘、最年少ダービージョッキーの前田長吉が3割3分9厘ほど(1944年の能力検定競走の騎乗数を確定できないため「ほど」とした)という勝率をおさめている。それはそれで別の難しさがあり、素晴らしい戦績なのだが、馬の能力が高いレベルで拮抗した現代の競馬で川田騎手のような数字を叩き出すのは、彼が実際にやってのけるまで、ちょっと考えられないことだった。
彼なら武豊騎手とクリストフ・ルメール騎手しか達成していない年間200勝も狙えるのだろうが、そのためには、もっと騎乗数を増やす必要がある。騎乗数を増やすと勝率が下がり、「半数近く連対する」「6割近く馬券に絡む」「あまり負けない」という「強い川田将雅」のイメージに響くかもしれない。ここ5年以上、年間600回に満たない騎乗数で、それが彼のスタイルのようになっているし、騎乗を依頼する側も、勝ち負けになる馬じゃないと頼みづらいだろうから、乗り鞍が急に増えることはなさそうだ。
さて、今週月曜日、9月11日に、2006年のオークスと秋華賞を無敗で制したカワカミプリンセスが世を去った。20歳だった。
2006年というのは私にとって特別な年だった。その「特別さ」には、カワカミプリンセスも関与していた。
同年の初夏、先にも触れた前田長吉の遺骨が故郷の八戸に「帰還」し、以降、私は長吉関連の取材をするようになった。長吉が最年少でダービーを制したときの騎乗馬は、11戦11勝の戦績をおさめた女傑クリフジ。クリフジはダービーのみならず、オークスと菊花賞も含めた「変則三冠」を制している。当時、オークスは「阪神優駿牝馬」という名称で秋に行われており、クリフジが勝った1943年は京都が舞台となった。
その60年後にカワカミプリンセスが生まれ、前述のように06年、史上4頭目の「無敗のオークス馬」となった。それにより、史上初の「無敗のオークス馬」であるクリフジの名がメディアによく出るようになった。ちなみに、史上2頭目の「無敗のオークス馬」は1946年のミツマサで、3頭目は1957年のミスオンワードであった。
そして、カワカミプリンセスがオークスを勝ったひと月半ほどあと、前田長吉の遺骨が、八戸の生家に戻ってきたのだ。長吉がそのときを選んで帰ってきたのか、それともカワカミプリンセスがそのときを選んで勝ったのかはわからないが、「無敗のオークス馬」という輝かしい冠が、長い年月を越えて、2頭の女傑を結びつけたのである。
クリフジもそうだったのだが、カワカミプリンセスは首を高くして走る馬だった。クリフジを7代母に持ち、2011年に無敗で兵庫ダービーを制したオオエライジンも、首の高い走法だった。カワカミプリンセスもオオエライジンも父がキングヘイローなので、そちらの影響かもしれないが、ともかく、大きな仕事をやってのけた馬たちをオーバーラップさせて語れるだけでも楽しかった。
カワカミプリンセスというと、そうしたつながりと、オークスのレース直後、検量室前に戻ってきて、呼吸を荒くしていた姿が思い出される。
天国で、ゆっくり休んでほしい。
島田明宏
作家。1964年札幌生まれ。Number、優駿、うまレターほかに寄稿。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』(2011年度JRA賞馬事文化賞受賞作)など多数。netkeiba初出の小説『絆~走れ奇跡の子馬~』が2017年にドラマ化された。最新刊は競馬ミステリーシリーズ第6弾『ブリーダーズ・ロマン』。プロフィールイラストはよしだみほ画伯。バナーのポートレート撮影は桂伸也カメラマン。
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