2023年10月30日(月) 12:00 38
※本記事は「馬の安楽死を含む医療」をテーマとしているため、一部センシティブな写真を掲載しております。ご了承の上お読みください。
普段は北海道にいる鈴木獣医師だが、遠方へと飛び、現地で手術を行うこともある。
そして各地の馬医療を目にしてきたことで、ある課題を肌で感じるようになった。
それは、“提供可能な馬医療(外科手術)の地域格差”である。
「僕が九州にいた20年前に比べて国内の馬医療は発展しましたが、外科手術に関する分野に言及すると、北海道外では急患対応なども含めてまだまだ不十分だと感じています。国内の馬に対する外科手術がなかなか普及しない理由は、馬が北海道に集中していることが大きな原因です」
確かに、農林水産省畜産局競馬監督課『馬産地をめぐる情勢』(令和5年6月)を見てみると、全国の軽種馬生産頭数7,782頭のうち、北海道での生産頭数は7,597頭と、実に全体の98%を占めている。必然的に最新の馬医療技術は北海道に持ち込まれることになり、それ以外の地域では頭数差も相まって十分な経験を積むことができないのが現状だ。
▲農林水産省畜産局 競馬監督課『馬産地をめぐる情勢』 p.5をもとに作成(CreemPan)
実は、内地(北海道以外の地域)にも、九州、中国、近畿、関東、東北地方など、馬の手術が可能な施設はたくさん存在する。
だが、先述した理由から施設の利用価値を最大限活かせていないのだという。
▲取材に基づき作成(CreemPan)
「北海道では、この20年で色んなことが発展して、手術が必要だった疝痛馬の8割が助かるようになりました。だけど内地ではやれることが限られてしまっていて、北海道では助かった可能性のあった馬が死んだ話をたびたび聞いていました。なので、その辺りを改善するためにはどうすれば良いのかを考えました」
日本の各地で、獣医師間の勉強会は頻繁に行われている。
だが、座学だけでは助けられない馬もいる。手術には何より実践経験が必要となる。
理想は、内地の獣医師に沢山の経験をしてもらう事だが、あいにく馬、それにともなう手術や治療件数も北海道に集中するため、簡単に経験を積んで技術向上することは難しい。その問題を解決する方法を模索した。
「そのためにまずは、情報発信をすることにしました。ある程度共有ができる情報に関してはWEBで発信して、『こんなこともできるんですよ』と内地の獣医さんたちだけでなく、馬関係者(オーナーや管理者)に知ってもらうことで、選択肢の幅を広げてもらうんです」
実際に、鈴木獣医師が運営する『馬好きさんのライト獣医学』では、日々の飼養管理から専門的な馬医療に関する知識まで、様々な情報を無料で発信している。
▲鈴木獣医師が運営する『馬好きさんのライト獣医学』
地域によっては牛をメインに診療する獣医師しかいない地域もあるため、そういった馬に慣れていない獣医師に向けても情報発信を行っている。
ただ、単に獣医師に向けて発信するだけでは、まだ不十分なのだという。
「さっき言ったように今は疝痛手術の8割が助かりますし、手術した後にG1レースを勝った馬もいます。けれども、乗馬を含めた馬のオーナーさん達の中には、そういった馬医療の可能性を知らされずに『手術して治っても、競馬や馬術競技に使えないんでしょ』と思われている方がいると思います。そうすると『手術をやってくれ』という言葉が出なくなる。オーナーからの依頼がないと獣医師は手術できないですし、勉強する必要性が無ければ技術も進歩しにくいという背景もあると思います。こればかりは、これまでに国内の馬社会に対して啓蒙・情報発信を十分できてこなかった我々獣医師に責任があると考えています。
逆に、オーナーから要望があれば、獣医師はそれに応えるべく体制を整える必要性が高まりますし、ゆくゆくはビジネスにもなるかもしれない。そうなれば、あとは加速度的に発展する可能性だってあると思っています」
つまり、馬医療の地域格差を是正するためには、獣医師だけではなく、オーナーや管理者への情報発信が必要となるのだ。
「手術するしないの判断はオーナーさんが決められる事ですが、治療したいときに『選択肢が無いので安楽死』ということにはしたくない。『バナミン(痛み止め)3回打って、効かなければ諦めなさい』そんな悲しい現実をいつまでも続けていては進歩がありません。いちばん大切なことは、現実的、かつ実施可能な選択肢を増やすこと。その実現と充実のために双方に向けた情報発信を続けています」
▲啓蒙活動に取り組む鈴木獣医師(本人提供)
現在の日本では競馬以外の馬文化が少ないため、馬は“経済動物”としての側面が強い。そうすると、お金のかかる“手術”という選択はどうしても取られにくくなる。そして先述のように、馬のオーナーが治療を希望しない事には、治療がすすめられない。
──では、どうすれば彼ら“経済動物”の命を救うことができるのだろうか。
「最終的に決断に影響するのは『助けたい』と思う心です。それには犬や猫がペットであるように、馬も“愛玩動物”なんだという概念が広がってくれれば、『何とかしてください』『生きているだけでもいいので助けてください』という声も上がるようになるかもしれません。
逆説的ではありますが、“経済”という言葉に縛られすぎていることもあると思います。競走馬だけでなく乗馬も“経済動物”に含まれるでしょう。馬を調教した方なら意味が分かると思います。馬に愛情を持ち、興味を抱き、馬が発する小さな変化や、わずかな訴えに気付けなければ、良い馬は育てられません。ゲームのようにスケジュールだけ組んで調教しても馬は育ちません。人の愛情が根底にあってこそ、良い馬が育ち、最終的にその馬の経済的価値が高められると思っています。経済動物とはいえども、今の日本社会の中で彼らの命の意義を確立させるためには愛情が必要なんです」
馬を“経済動物”として一括りに見るから、走れなくなったら安楽死、乗れなくなったら安楽死という選択に行き着く。そうではなく、生き物として馬が好きな人が増え、“愛玩動物”という感覚で馬を見る人が増えれば、命を救うという選択肢が広がる。そうして馬のオーナーが、その選択肢を持つことで、馬医療に求められる技量も自ずと高くなる。そして獣医師も研鑽を積み、提示できる可能性の幅が広がっていく──。
こういった好循環こそが、馬医療技術の発展、ひいては彼らの命を救う事にもつながるのだ。
「私のWEBサイトを見て連絡が来ることもあります。サイト名の“馬好きさんの”という言葉のとおり、馬が好きな人が増えて、オーナーや管理者の選択肢が増えて、少しずつ社会が変わって、ハッピーな馬が増えていく。そういうところに、自分の角度から少しだけでも貢献できればいいなと思っています」
鈴木獣医師がWEBサイト運営と並行して行っている活動がある。それは一般の方を対象とした講義だ。
「馬オープンセミナー」と題されたこの講義だが、2022年は大阪公立大学で開催され、獣医師や獣医学生だけではなく、SNSを通じて知った馬関係者など、会場とオンラインを合わせて数百名が参加した。
▲大阪公立大学で行われた『馬オープンセミナー』(本人提供)
同じ獣医師免許で診ることの出来る犬や猫の獣医師に比べ、馬の獣医師は常に不足している。
日常の中で馬に触れる機会が少ない現代、獣医師を目指す学生に「こういう就職先がありますよ」と紹介することも、先駆者である鈴木獣医師の使命となっている。
翌日からは、関西圏で活動する開業獣医師を中心に、2日間の疝痛セミナーも開催された。そして、そのセミナーを通して大きな出来事があった。
「疝痛の講義に参加してくれた関西の獣医師から、後日連絡があったんです」
講義に参加していた関獣医師(大和高原動物診療所)は、奈良県の月ヶ瀬乗馬クラブ所属の18歳のアヴァンセ号の診察をしていた。鎮痛剤に対する反応が鈍く、馬の状態は徐々に悪化していく様子が見られた。さっそく、講義で学んだ検査を行い、エコー検査で小腸ねん転が疑われると診断した。とはいえ慣れない検査のため、北海道にいる鈴木獣医師と検査中の画像を共有し、オンライン上で情報を共有しながら診察が進められた。そして、小腸ねん転の可能性が高く、手術の対象であると判断された。
直後、正式に手術の依頼を受けた鈴木獣医師は、現地へと赴き手術を執り行った。
「社台ホースクリニックは新千歳空港まで車で10分。石川准教授が提供してくれる大阪公立大の手術室は、関西国際空港から車で5分。飛行機の移動時間は2時間弱。手術は一人で出来ませんが、LINE“関西オペ作戦チーム”に登録された関西の獣医師に声をかけると、今では自分の仕事中でも駆けつけてくれる仲間たちがいます。みな、自分の仕事も忙しいのに勉強のため、命を助けるために集まって夜中まで協力してくれる素晴らしい仲間です。手術の結果、無事に助かって、約2カ月後から通常の運動を再開しました」
▲アヴァンセ号と、手術チーム(本人提供)
鈴木獣医師の活動と、講義に参加した地元獣医師の素早い判断が実を結び、一頭の馬の命を救うことが出来た。そして更に、嬉しい知らせがあったという。
「その馬のオーナーの息子さんから手紙をいただきました。『アヴァンセは、僕が小学5年生の頃から乗っていたパートナーです。命を助けてくれてありがとうございました』と書いてありました。“手術”という必要な選択肢を提供できて、その子にとって特別な馬を助けることができた。自分がやりたかったことが20年越しでようやく叶って、本当に嬉しかったです。涙が出そうでした。さらに驚くことに、アヴァンセはその後、7月の国体四国予選の少年標準障害飛越競技で、息子さんを背中に乗せてみごとに優勝までしてくれたんです」
獣医学生の時に救えなかった“友達”の命。
20年の時を経て、当時の自分と同じ境遇にいる人と馬を救うことが出来たのだった。
▲術後、驚くべき回復を見せたアヴァンセ号(本人提供)
年間で300頭以上の手術を手掛ける鈴木獣医師。
取材の最後に、改めて啓蒙活動の真意を伺った。
「関わり方は人それぞれありますが、私にしかできない角度からの馬への恩返しと、馬に携わっている方たちの恩返しを通じて、少しでも国内の馬や馬に携わる方々がハッピーになる社会の実現につながれば良いと思っています。神様から与えられた仕事だと思っています。
宮崎に帰省したときは、あの馬たちのいる馬頭観音に行って『ありがとう。ちゃんと勉強してます』と報告しています」
▲“友達”が眠る馬頭観音(本人提供)
この記事をお読みいただいている今も、社台ホースクリニックのオペ室では、鈴木獣医師が懸命に馬の命と向き合っていることだろう。
編集後記
これほど詳細に、「馬の安楽死」を主題として取り上げたメディアはあっただろうか。
業界でも極めてセンシティブなこの話題に、鈴木獣医師は人と馬のより良い未来に繋がる医療発展のため、真摯に語ってくれた。
2018年から2019年にかけて、引退馬問題を取り上げた映画「今日もどこかで馬は生まれる」を制作し、数多の馬事関係者を取材した。
その上で思うのは、この記事にある処置や配慮は、極めて“理想的”で、全ての安楽死が同等のクオリティーで行われているのかは考察の余地があるということだ。
鈴木獣医師の取り組みが、本当の意味で業界のスタンダードとなり、理想が現実になっていくことを願う。
メディアとして安楽死を取り上げるのは大変難しい。だが、これからもこの難題に向き合い続けたい。
(了)
取材協力: 鈴木吏 社台ホースクリニック
取材・文:片川 晴喜
デザイン:椎葉権成
協力:緒方 きしん
監修:平林 健一
著作:Creem Pan
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Loveuma.(ラヴーマ)
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