ファニーサイド現役引退

2007年07月17日(火) 23:50

 2003年のケンタッキーダービーで、1929年のクライドヴァンデューセン以来74年振りとなるセン馬の優勝を果たしたファニーサイドの引退が発表された。2歳9月のデビューから、最後のレースとなった7月4日のワッズワース・メモリアルHまで、38戦し11勝。350万ドルの賞金を収得したファニーサイドの現役生活は、足掛け7年でピリオドを打つことになった。

 公式に発表された全米年度代表馬は古馬のマインシャフトだったが、ファンにとっての03年は明らかにファニーサイドの年であった。それほど、この馬が巻き起こしたブームは大きかったのだ。

 02年の夏にサラトガで行われたニューヨーク産馬限定の1歳馬セールで、2万2000ドルという廉価で購買された後、調教師バークレイ・タッグに見初められ、現在のオーナーである「サッカトガ・ステーブル」に庭先で、7万5000ドルという価格で転売されたファニーサイド。2歳時に、ニューヨーク産馬限定戦を3連勝。3歳を迎えるとケンタッキーダービー戦線を歩み、ホーリーブルS5着、ルイジアナダービー3着、ウッドメモリアルS2着という成績で小刻みに賞金を稼ぎ、ケンタッキーダービーに駒を進めてきた。

 この時、ファニーサイドを私有する馬主グループ「サッカトガ・ステーブル」の詳細が大々的に報道されて、ファニーサイドは一躍注目の存在となった。サッカトガ・ステーブルとは、ニューヨーク州北部に住むごく一般的な庶民10人で結成されたシンジケートだったのだ。きっかけは、高校の同窓会で集った仲間たちの間で、一人あたり5000ドルずつ出し合って一緒に馬を持とうという話になったことで、メンバーはサケッツハーバーという小さな町の元町長だったり、サラトガでヘルスケアのお店を営む者だったり、塾の講師を務めているものだったり、リタイアした元建設会社作業員だったり。要するに、馬主=富裕層というイメージとは全く掛け離れた連中が持っていたのが、ファニーサイドだったのである。

 しかも、7万5000ドルというファニーサイドのお値段は、本来ならばとてもじゃないが彼らに払える金額ではなかったのが、ファニーサイドの前に持っていた馬がたまたまクレイミングレースで6万2500ドルで売れて、それなら払えるということで買うことになった経緯があった。

 そんな馬が、ケンタッキーダービーに出ることになったのだ。ダービー当日のチャーチルダウン。高級車ばかりが並ぶ出走馬関係者用駐車場に、サッカトガのメンバーが乗り付けたのは黄色いスクールバスだった。もとより高級車を乗り回す連中ではなく、メンバーと家族の総勢30人ほど一緒に乗れる、最も安く借りられる乗り物が、学校が休みで車庫に眠っていたスクールバスだったというわけだ。

 ファニーサイドのケンタッキーダービー優勝が、「庶民の夢かなう」として全世界に発信されたのには、そんな背景があったのだ。

 セン馬のため、長く現役生活を続けたファニーサイド。5歳以降はメジャーなレースでのめぼしい活躍はなくなったが、今年7月4日に、馬主たちの地元に近いニューヨーク北部のフィンガーレイクスで行われた特別ワッズワース・メモリアルHに優勝。この勝利を花道にして、現役を去ることになったものだ。

 今後は、乗馬としてバークレイ・タッグ厩舎に留まりつつ、余生を送る場所がじっくりと時間をかけて検討されることになっている。

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合田直弘

1959年(昭和34年)東京に生まれ。父親が競馬ファンで、週末の午後は必ず茶の間のテレビが競馬中継を映す家庭で育つ。1982年(昭和57年)大学を卒業しテレビ東京に入社。営業局勤務を経てスポーツ局に異動し競馬中継の製作に携わり、1988年(昭和63年)テレビ東京を退社。その後イギリスにて海外競馬に学ぶ日々を過ごし、同年、日本国外の競馬関連業務を行う有限会社「リージェント」を設立。同時期にテレビ・新聞などで解説を始め現在に至る。

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