ベルモントS回顧

2008年06月10日(火) 23:50

 ベルモントSから3日余りが経過したが、こういう事も起りうるのが競馬と重々承知しつつ、えも言われぬ虚脱感から抜け出せずにいる。

 余りにも異常な失速振りに、何かアクシデントがあったのではないかと心配されたビッグブラウンだが、獣医検査を含む入念なモニタリングが行われているにも関わらず、いまだに目立った肉体的疾患は発見されていない(現地9日夜現在)。喉のスコープもクリーンだったし、脚元にも異常はなく、つまりは前走まであれだけ強かったビッグブラウンが、ベルモントSではまるで別馬のように振る舞った明確な要因は、明らかにされていないのである。

 ベルモントの深くて緩いダートが合わなかったのではないか、34度近くまで上昇した気温に走る気をそがれたのではないか、引き上げてきた時に左後肢の蹄鉄が緩んでいたのでそれが原因なのではないか、等々、取り沙汰されているファクターはいくつかあるが、いずれも3コーナー手前で早くも手応えがなくなった理由として明解なものではなく、結局は、本番2週間前に起きた裂蹄や、距離に対する血統的な懸念も含めて、複数の要因が負の連鎖を引き起こしたとしか説明がつかないのかもしれない。

 ベルモントS前後の一連の動きの中で、株を落としたのがビッグブラウンの管理調教師リチャード・ダットロウだ。

 戦前は、カジノドライヴに対して挑発的なコメントを連発。「私なら、カジノドライヴの馬券は買わないね。ビッグブラウンの2着候補は、別の馬だよ」。「日本人はゴジラが死んだと思っているのだろう。ビッグブラウンという怪物がいることを思い知らせてやるさ」。半ばは対決を盛り上げようとするリップサービスだったのだろうが、遥々遠征してきた相手に対する敬意が全く見られないと、米国人の間でも「失礼だ」という声が上がっていた。

 そして敗戦後は、共同記者会見を拒否。獣医検査の結果、何も問題が無いことが判ると、「デザーモの乗り方には納得がいかない」と、負けた責任を騎乗者になすりつける発言を行う始末であった。アケダクトを本拠地とするダットロウ師にとっては、地元で思いもよらぬ敗戦を喫した衝撃から立ち直れていないのだろうが、見苦しいという印象を持ったファンも多かったはずだ。

 我々マスコミの人間も、優勝馬ダタラに敬意を払うことを忘れてはならないだろう。ことに、重賞はおろか特別すら勝っていないにも関わらず、2400mに適性があること、展開的に先行馬有利になることを見抜き、ここへ使ってきたニック・ジトー調教師の辣腕は高く評価されてよいはずだ。

 ダタラは、06年のサラトガ・イヤリングセールで、17万5千ドルで購買された馬だ。叔母にG1ヴァニティーH勝ち馬プライヴェートパスエーションがいるものの、決して活力があるとは言い難い牝系を鑑みると、まずは妥当な価格という気がする。ちなみに、ダタラの1つ年上の姉にあたるのが、現在日本で現役として走っているサウスヒューマーだ。こちらは05年のファシグティプトン・ケンタッキーイヤリングで13万ドルで購買されて、高橋祥泰厩舎からデビュー。既に3勝を上げて、準OPに属している。父がトップサイヤーのディストーテッドヒューモアであることも含めて、サウスヒューマーの繁殖牝馬としての価値は、突如として急上昇したと言えよう。

 第140代ベルモントS勝ち馬となったダタラ。勝ち時計は平凡で、ベイヤー指数も99と、このインデックスが世に認知された90年以降では、最も数値の低いベルモントS勝ち馬となった。この低評価を覆すには、今後の戦いで良績を残す以外に方法がなく、次の大目標である8月23日のトラヴァーズSが、この馬にとっての試金石となるはずだ。

 いまだ不確定要素が多いものの、ビッグブラウンもトラヴァーズSを目指すと言われており、真夏のダービーは例年以上に注目されることになりそうだ。

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合田直弘

1959年(昭和34年)東京に生まれ。父親が競馬ファンで、週末の午後は必ず茶の間のテレビが競馬中継を映す家庭で育つ。1982年(昭和57年)大学を卒業しテレビ東京に入社。営業局勤務を経てスポーツ局に異動し競馬中継の製作に携わり、1988年(昭和63年)テレビ東京を退社。その後イギリスにて海外競馬に学ぶ日々を過ごし、同年、日本国外の競馬関連業務を行う有限会社「リージェント」を設立。同時期にテレビ・新聞などで解説を始め現在に至る。

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