2014年03月13日(木) 18:00
◆上村だけが知るサイレンススズカ
上村の海外行きをサポートした橋田は、帰国後の上村のために、1頭の期待馬を用意していた。サイレンススズカ──帰国直後の97年1月、上村の騎手人生を左右した、運命の馬に出会うことになる。
僕の日本での復帰戦のために、橋田先生が温存しておいてくれたのがサイレンススズカだったんです。最初に調教で乗ったときの衝撃はすごかったですよ。なんていうのか…後にも先にも初めての感覚でしたね。ただ、当初から繊細すぎて、一触即発の危うさがありました。一歩間違えたら、とことんダメな方向に行ってしまいそうな。
反面、この馬を大事に育てていったら、とんでもない馬になるという確信があったので、デビュー前から付きっきりで調教したんです。どんなに優れた調教助手が乗ったとしても、乗り手によって馬に癖がつきますから、とにかく他の人には乗せたくなかった。僕なりに馬を作るということに関しては、誰が乗っても乗りやすい馬を作るのが理想だったので、自分の手でサイレンススズカという馬を作りたかったんです。
1997年2月1日、京都芝1600mの新馬戦では、単勝1.3倍の圧倒的1番人気。好スタートから一気にスピードに乗ると、のちに重賞戦線を賑わすパルスピード(ラジオたんぱ賞、北九州記念、京都新聞杯2着)らを7馬身ちぎり捨てた。
デビュー戦は、走る前から「馬なりで勝つ」と公言していたくらい、絶対に負けないという自信がありました。あのレースを観た人には、“今年のダービー馬はこの馬やな”っていうくらいのインパクトを与えられたのではないでしょうか。勝利を確信していた僕にとっては、始まりに過ぎなかったんですけどね。
本来、気性の素直な優等生だったんですよ。ただ、素直すぎて繊細というか、当時はつねにギリギリのところで気持ちを保っていた感じでした。その一線を越えてしまったのが弥生賞でしたね。それまで一度もそんな素振りを見せたことはなかったのに、あのときはゲートを潜ってしまって。本来、競走馬は、あんなに簡単にゲートを潜れるものではないんです。でも、サイレンスはいとも簡単にくぐり抜けましたから、それだけ体が柔らかかったんですよね。
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