「なかったこと」にしてはいけない

2014年05月24日(土) 12:00


◆復帰を目指す後藤騎手と会って

 先日、週刊誌の書評ページの著者紹介コーナーの取材を受けた。

 最寄り駅の改札前で待ち合わせ、少し早めに行くと、女性記者と女性カメラマンがさっと駆け寄ってきた。ふたりとは初対面だったのだが、今は、スマホやパソコンで検索すると画像も出てくるので、私の顔を知っていてくれたらしい。

「お話をうかがう場所は近くの喫茶店を押さえてきました。その前にお写真を外で撮らせていただいてよろしいですか」

 と記者のTさんが駅の東口を指さした。

 小雨が舞い、肌寒い日だった。

 カメラマンのSさんが、おそらく光を通すという理由からだろう、ビニール傘を差し出して、

「これをさして、そちらの壁沿いに立っていただけますか」

 とカメラを向けた。

 カシャッ、カシャッと何度かシャッター音がしてから、

「笑いましょうか」

 と私が笑顔をつくると、Sさんの動きが止まった。

「いえ、結構です」

 まだ20代だろうが、気持ちいいぐらいはっきりものを言う。

「そうですか」

 カシャッ、カシャッ。

「壁に寄り掛かってもらえますか」

 とSさんが私の横に来て言った。私は顔を正面に向けたままだったので、目線なしの横顔を彼女は撮っていたわけだ。

「そのままこちらを向いてください」

「はい」

 と顔だけを左に向けた。

 雨のなか、傘をさして駅前のビルの壁に肩を預け、流し目でレンズを見る――今思い出すと恥ずかしいのだが、そのときはなぜか大丈夫だった。

 いつ掲載誌が発売されるのか訊くのを忘れたのだが、火曜日発売の週刊誌なので、おそらく再来週の火曜日、6月3日あたりだろう。

 喫茶店でTさんの取材を受けてから、落馬による骨折で入院中の後藤浩輝騎手の見舞いに行った。

 菓子折りだけでは気が利かないと思い、以前後藤騎手と私と一緒に食事をした作家・編集者の石黒謙吾さんの奥様である石黒由紀子さんが最近上梓した『犬猫姉弟センパイとコウハイ』を買って行った。

 首をギプスで固定し、髪も髭も伸びたパジャマ姿の彼は、私が知っている騎手・後藤浩輝のイメージとあまりにかけ離れていて一瞬戸惑ったが、話してみると、頭の回転の速さなどは以前のままだったのでほっとした。だが、事故直後は意識がなく、その後も記憶が飛んでいるところがあったり、呂律が回らなかったりした時期もあったという。

 こうして復帰を目指せるようになって本当によかった。心底そう思う。その一方で、優れた才能を一時的とはいえ2度も危機に追いやった岩田康誠騎手に対する処分は、やはり軽すぎたのではないか、という思いを捨て切れずにいる。被害の程度に見合った処分、今回の場合なら数カ月の騎乗停止が科されるなど厳罰化されるよう求めるのもひとつの方法なのかもしれない。

 しかし、それはあくまで抑止力になり得る案のひとつに過ぎない。3度目の事故が起こらない環境、起こりにくい環境をつくる過程で選択肢になるものではあるが、そこが目指すところではない。

 あの事故が起きる直前、後藤騎手の左斜め前に岩田騎手、右斜め前には田中勝春騎手の馬がいた。斜め後ろに馬がいることを察知した田中騎手はそちらに行かぬよう操作した。残念ながら、岩田騎手にはそれができず、故意に落馬させようとしたわけではなかったとはいえ、2年前のNHKマイルカップと同じような走行妨害を繰り返す結果となった。3度目が起きないようにするにはどうすればいいのか。

 誤解のないよう念押しするが、これは岩田騎手個人を責めることによって解決する問題ではないと私は考えている。

「もしかしたら、復帰してエスポワールシチーでGIを勝ったり、松山康久先生の通算千勝目をぼくが挙げることができて喜んだ、あの時間のほうが夢だったんじゃないかな、と思ったこともあります」

 後藤騎手がそう言うのを聞いて、私にも何かできることがあるのではないか、いや、何かしなければならないのではないか、と思った。

 ひとつ確かなのは、あの事故を「なかったこと」にしてはいけない、ということだ。

 この件には、機会があれば、またふれていきたい。

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島田明宏

作家。1964年札幌生まれ。Number、優駿、うまレターほかに寄稿。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』(2011年度JRA賞馬事文化賞受賞作)など多数。netkeiba初出の小説『絆〜走れ奇跡の子馬〜』が2017年にドラマ化された。最新刊は競馬ミステリーシリーズ第6弾『ブリーダーズ・ロマン』。プロフィールイラストはよしだみほ画伯。バナーのポートレート撮影は桂伸也カメラマン。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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