■第4回「本性」

2015年03月09日(月) 18:00

【前回までのあらすじ】
容貌魁偉の調教師・徳田伊次郎、32歳。亡き父の跡を継ぎ、南関東で厩舎を構えている。厩舎は三流で、従業員はみなやる気がない。伊次郎は、辞表を出したベテラン厩務員のセンさんに病院に行くよう勧めた。そして、元ヤンキーの厩務員・若村ゆり子に、自分の前に座るよう命じた。


 伊次郎は特に何かに腹を立てているわけではないのだが、大仲の雰囲気は異様なほどピリピリしている。

 伊次郎の鬼の形相のせいだ。自分でもわかっている。わかっているのだが、どうにもできないのは、これが地顔だからだ。

 そっとこめかみに触れてみた。ミミズのような太い血管が浮き上がっている。指で押し込んでも、すぐまた浮き上がってくる。もう一度ぐっと指の腹で押し込んだとき、この沈黙が周囲を緊張させていることに気がついた。

 こめかみにあてた左手の人差し指のやり場がない。仕方なく、という感じで、入口に突っ立っている騎手の藤村豊を指さした。

 藤村は顔色を変えた。

「藤村、なんの用だ」

 伊次郎が訊くと、藤村は、水を浴びた犬のように首をブルブルと振った。

「い、いえ、なんでもありません」

 この男は、腕はいいのに肝っ玉が小さく、そのせいで勝てるレースをいくつも落としている。チキンハートというか慎重すぎる性格で、クルマを運転するときも、乗る前の周囲確認から始まり、イグニッションキーを回したらしばらくエンジン音に耳を傾け、じっくり左右を確認する。走り出しても、ふざけているのではないかと思うぐらい車間距離をとり、ゆっくり進む。伊次郎の運転なら10分で着くところに30分ほどかかるので、誰も同乗したがらない。

「調教騎乗料の請求書を持ってきたのか」と伊次郎。
「はい」
「なら、そこに置いとけ」と、伊次郎は、ホワイトボード脇の小さなテーブルに乗った書類入れを指さした。

 すると、藤村は、請求書の入った封筒が、箱のなかで上下左右の隙間が同じになるよう両手で揃えはじめた。ずいぶんムダなことに思えるが、こういう作業をしているときの目は輝いているし、手も震えていない。

 伊次郎の半分ぐらいの大きさしかない顔は、俳優の妻夫木聡によく似ている。騎手にしては長身の170センチ。騎乗フォームも流麗なので、デビュー当初は「南関東にも天才・ユタカ登場か!」と騒がれたが、すぐに周囲が静かになった。

 こんな調子であるから、顔もスタイルもいいのに、女性ファンはほとんどいない。

 その藤村がいなくなり、大仲にいるのは伊次郎と、向かいに座るゆり子、そして、もうひとりの厩務員、宇野だけになった。

 伊次郎は、足元に置いたビジネスバッグからタブレットをとり出し、スキャンしたゆり子の履歴書を表示させた。・・・

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島田明宏

作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊ギャロップ、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。趣味は読書と読売巨人軍の応援。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。最新刊はテレビドラマ原作小説『絆〜走れ奇跡の子馬』。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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