■第12回「名前」

2015年05月04日(月) 18:01

【前回までのあらすじ】
容貌魁偉の調教師・徳田伊次郎、32歳。亡き父の跡を継ぎ、南関東で6馬房の厩舎を構えている。厩舎は三流で、従業員は無気力。伊次郎は、厩舎改革に乗り出した。少しずつスタッフがやる気になり、厩舎が活気づいてきたが、管理馬がなかなか勝てず、またダレ気味に。そんなあるとき、競馬史研究家が訪ねてきて、伊次郎の曾祖父・徳田伊三郎について訊いた。


 競馬史研究家の鹿島田の口から、懐かしさ以上に、軽い疼きをともなって響く名前が飛び出した。

 徳田伊三郎(とくだ いさぶろう)。

 伊次郎の父方の曾祖父である。

 曾祖父とはいっても、その名と存在をはっきり認識していたわけではない。身内の葬儀か何かで、祖先に競馬関係者がいた、と聞いたことがある程度だ。

 伊三郎の息子、つまり伊次郎の祖父や大叔父たちは誰も競馬に関する仕事に就かなかった。しかし、突如、伊次郎の父が競馬サークルに飛び込み、一族から総スカンを食った。

 まだ競馬が国民的レジャーとして認識される前の話だ。耳に赤ペンをはさんだ人相の悪いオヤジたちが穴場の前をウロウロしており、競馬場は鉄火場だった。

 そうした暗く、いかがわしいイメージのせいで父は親戚から白い目で見られていると思っていたのだが、あるとき、それとは別の理由があることを知った――ような気がするのだが、物心つくかどうかの小さいころのことなので、記憶はセピア色にかすんでいる。

 目をとじると、瞼の裏にぼんやりと浮かんでくるのは、やはり誰かの葬儀の会場で、遺族の待合室に使われた和室のようだ。太った女性が何人かいて、みな伊次郎を睨みつけている。その記憶に、長男(正確にはひとりっ子)でありながら「伊次郎」と名づけられた理由を聞いたシーンが重なろうとしていた。何かが聞こえる。

 ――これは……波の音か。・・・

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島田明宏

作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊ギャロップ、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。趣味は読書と読売巨人軍の応援。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。最新刊はテレビドラマ原作小説『絆〜走れ奇跡の子馬』。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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