■第18回「異変」

2015年06月15日(月) 18:00

【前回までのあらすじ】
容貌魁偉の調教師・徳田伊次郎、32歳。亡き父の跡を継ぎ、南関東で6馬房の厩舎を構えている。厩舎は三流で、従業員は無気力。伊次郎は厩舎改革にとりかかり、馬の仕上げ方を変えた。担当厩務員のゆり子を弾き飛ばすほど過敏になったシェリーラブが、改革後の1番手としてレースに出ることになった。


「逃げ宣言」をしたシェリーラブは、よりによって大外12番枠を引いた。

「先生、この枠からでも、ハナに行かなきゃダメですか」と藤村。

 伊次郎が厩舎改革を断行してから初めて臨む実戦のパドックで、小心者の主戦騎手は、跨る前から弱気になっている。

「行っちゃえ、行っちゃえー」と、曳き手綱を持つゆり子が、伊次郎が口をひらく前に言った。3日前まで、シェリーラブに合わせて減食してゲッソリしていたのに、今は別人のように丸い顔をしている。急にドカ食いしてムクんだようだ。

「出鞭を入れてでも、とにかく単騎で行け」と伊次郎は藤村の脚を抱え、鞍上へと持ち上げた。
「はい……」

「溜め逃げはするな。体が伸び切ってもいいから、オーバーペース気味に行くんだ。そして、前に言ったように、ゴール前50メートルでバタバタになるイメージだ」
「はあ」

「間違っても、ゴールできっちりスタミナを使い切るような乗り方はするなよ」
「……でも、先生の指示どおりの競馬では勝てないと思います」

「結果は、あとでついてくるものだ。今は勝ち負けを考える段階じゃない。頼むぞ」
「わかりました」

 半分不服そうに、半分寂しそうに答えた藤村の背中を見て、伊次郎は思った。ひょっとしたら藤村は、厩舎を開業してから一勝もしていない伊次郎のために、なんとか勝ちたい、勝たなければいけない、と思っているのかもしれない。

 ――今はその気持ちだけありがたくもらっておくぞ、藤村。

 このシェリーラブもトクマルもほかの管理馬も、みな、まず1600メートル戦を使い、次に1500メートル戦、1400メートル戦と100メートルずつ距離を縮めていくつもりだ。

 逆に、距離を延ばしていくほうが、初戦より2戦目、2戦目より3戦目と逃げやすくなるように思われるが、それは、もともとスピードのある馬だけに当てはまることだ。

 伊次郎の管理馬でそれをやると、最初の1400メートル戦でハナを切れずに揉まれたり砂をかぶるなどして、馬が走ることを嫌がるようになったり、傷ついたメンタル面のケアから次走の準備を始めなければならなかったり……というリスクのほうが大きくなる。

 ならば、ハナを切りやすい距離から使い、人馬ともに群れの先頭を行く爽快感と、競馬をつくる面白さを味わって、次もそれを求めるよう仕向けるほうがいい。

 ――大外枠というのは、うちの馬にとって、むしろ好都合かもな。

 出遅れた場合、内枠ならつつまれて出られなくなってしまうが、外枠なら、途中からでもハナを奪うことができる。

 シェリーラブは前走からマイナス12キロの446キロ。それでも、腹が巻き上がっていることもなければ、トモが寂しく見えることもない。

 ときどき尻っ跳ねして藤村の手を煩わせながら、出走馬の最後に、12番枠に入った。

 ゲートがあいた。・・・

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島田明宏

作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊ギャロップ、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。趣味は読書と読売巨人軍の応援。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。最新刊はテレビドラマ原作小説『絆〜走れ奇跡の子馬』。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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