2015年08月10日(月) 18:00
【前回までのあらすじ】 容貌魁偉の調教師・徳田伊次郎、32歳。亡き父の跡を継ぎ、南関東で6馬房の厩舎を構えている。厩舎は三流で、従業員は無気力。伊次郎は厩舎改革にとりかかる。その1番手としてレースに出た牝馬のシェリーラブが軽快に逃げ切り、厩舎初勝利を挙げた。次に出走したトクマルは最後に外にヨレて2着。急にレースぶりがよくなった徳田厩舎に売り込みをかけてきた一流騎手の矢島を、伊次郎は初めて起用することにした。
担当馬のトクマルに乗る矢島の口から「パンク」という言葉が出た瞬間、センさんの表情が変わった。
「矢島よォ、おめえ、一流と言われる乗り役なら、そったらこと簡単に言うでねえ」 「ほかの厩舎では言わねえよ」 「どういう意味だ」とセンさん。
「豪腕というイメージのおかげで、馬が壊れたらいつもおれのせいにされる。だが、ここの調教師は公言しているだろう。レース中の故障の責任はすべて調教師にある、と」
矢島の言葉に伊次郎が頷いた。
「そのとおりです。要は、矢島さんは、調教師がハンパな仕上げをしない限り、1戦だけで降りることはない、と言いたいんですね」 「そういうことだ」
「だったら、最初っからそう言えばいいべさァ」とセンさんが眉間のしわを消した。
美香が矢島にアイスコーヒーの「ほころびブレンド」を出した。ストローに口をつけた矢島は、それを「チューッ」と、ひと吸いしただけで飲み尽くした。
しかし、誰も驚かない。首を傾げた矢島は、伊次郎が同じように「チューッ」とストローを一度吸っただけでコップを空にするのを見てニヤリとした。肺活量がだいたい6000cc以上ないとできない荒ワザなのだが、それに関しては、南関東を代表する悪人顔の二大巨頭は互角のようだ。
「なあ、徳田のテキよ」と矢島。 「はい」 「お前さん、これからも全部の管理馬に逃げる競馬をさせるつもりか」
「ええ、しばらくつづけます」 「ということは、だ。5日の競馬では、おれに対しても、藤村に対しても、『行け』という指示を出すわけか」・・・
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島田明宏
作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊ギャロップ、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。趣味は読書と読売巨人軍の応援。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。最新刊はテレビドラマ原作小説『絆〜走れ奇跡の子馬』。 関連サイト:島田明宏Web事務所
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