キズナとトレヴと短距離王

2015年10月03日(土) 12:00


 グリーンチャンネル「草野仁のGate J.プラス」の公開収録終了後、打合せをひとつ済ませてから新橋のいつもの居酒屋を覗くと、ディレクターのレイがカウンターに突っ伏していた。

 寝る間も惜しんで仕事を……ではなく、馬券の検討をしたり、酒を飲むことを生き甲斐にしている牡40歳が、もっとも生き生きするはずの場所で寝ているなんて、異常事態と言っていい。うすくあいた口元から湖のようにひろがっているのがヨダレか酒かわからなかったが、私は、自分の手を拭いたおしぼりを、それを吸い込むように置いてからウーロン茶を注文した。

 すると、だ。

「親父さん、芋焼酎、もう一杯」とレイが上体を起こした。

「なんだよ、レイ、起きてたのか」

「起きてるんだか寝てるんだか、自分でもわかりません。今さっきまで、キズナがもう一度凱旋門賞に出る夢を見てたんスから」

「見かけによらず、ロマンチストなんだな」と私は言い、グラスを合わせた。

「島田さんみたいに、酒を一滴も飲まない、じゃなくて飲めない下戸の人は、どうやってこういう気持ちを紛らすんですか。誰のせいでもないけど、誰かや何かを責めないとどうにもならないような気持ち。意志の力でハネ返すとか? ハハハ……」

 そう訊かれても、自分でもどうしているんだかよくわからいのだから答えようがない。

「おれからしてみると、飲めば何かを忘れたり薄めたりできる飲み物がこの世にある、ということのほうが不思議だよ」

「そうですか。酒は不思議な水ですか。相変わらず嫌な言い方をしますねー」と、珍しくカラむ。

 キズナの引退がよほどショックだったのだろう。

 そのとき、プロデューサーのソブさんとキャスターのユリちゃんがドカドカと入ってきた。助かった。

「いやあ、島田さん。この前『ネット競馬』のエッセイに書いていた私の富士山の写真、特選だけじゃなく、ほかの作品もあのリンクから見ることができるんですよ」とソブさんがスマホをとり出した。

 すると、薄紫の陽に染まった雪山の向こうに威容を見せる富士の写真が表示された。準特選「早春の稜線の先に(観音岳)」というソブさんの写真だ。まるで、空を舞いながら撮ったかのような不思議な浮遊感があり、その感覚と、富士のドッシリした存在感とが好対照な、美しい一枚だ。

 馬のポートレートやレース写真もそうだが、私は、構図云々以前に、光をいかにしてとらえ、表現しようとしているかが伝わってくる作品が好きで、ソブさんの写真も、特選になった「斜光射す」という作品も、まさにそれだった。

「ソブさんの写真、綺麗ですねえ」

「ありがとうございます。私の場合、島田さんのエッセイで『ソブさん』として登場するだけで特定されますから、いろいろな人から『おめでとう』って言われましたよ」

「で、イビキ外来には……?」

「行きました。毎日これをして寝ています」とソブさんは、鼻と口を酸素マスクで覆うような仕草をした。

 話がキズナから逸れたと思ったのも束の間、ユリちゃんが蒸し返した。

「キズナが引退したあとは、どの馬が主役になるんですか。ドゥラメンテも骨折でお休みだし」

 誰に対して投げかけられたのかわからないその問いに、レイが寝言のように答えた。

「ゴールドシップ、トーホウジャッカル、ラブリーデイ、ラキシス、トレヴ……。そうだ、トレヴだ。凱旋門賞を3連覇したら、偉業なんてもんじゃないっスよね。でも遠いなあ、やっぱり近くで見たいなあ」

 純粋な競技としてもこれだけノメり込み、馬券も「大丈夫か」というぐらい買う。競馬の何から何までも、レイは愛しているのだ。

「じゃあ、近いところでスプリンターズステークスの本命。ミッキーアイルでどうだ」

 いつのまに来ていたのか、自分ではめったに馬券を買わない「ケンのサトさん」がそう言い、専門紙をひろげた。

「なるほど、2歳のとき、中山マイルのひいらぎ賞を翌日の朝日杯より速いタイムで逃げ切って、『幻の2歳王者』と呼ばれた馬だもんなあ」とレイ。

「ほんとだ、アジアエクスプレスの勝ちタイムより、コンマ5秒も速かったんだね」とユリちゃんが、貝殻にも小石にも見えるものがたくさんツメに貼りついた指で馬柱を指し示した。

「その馬が、同じ中山で、長らく空位になっていた短距離王の座を射止める……って筋書き、ありそうだな」と言うレイはすっかり元気になっている。

「島田さんの本命は?」というユリちゃんの質問に答えたのもレイだった。

「武さんの応援馬券でベルカントに決まってるだろう。でも、この人の応援馬券は本当に当たらないよ。応援している馬がいつも勝っていたら、こんな世知辛い思いをしなくていいわけだから」

 図星だったので、私は何も言えず、ウーロン茶のグラスを空にした。

 ともあれ、レイがいつもの覇気をとり戻してくれてよかった。

 実は、馬以外の動物モノも手がけているレイに、この季節、都内でヒバリのような声で鳴く鳥は何か、教えてもらおうと思っていた。このところ、鈴を転がすような美しい声で目覚めることがよくあるのだ。

 しかし、サトさんから奪いとった専門紙に赤ペンであれこれチェックしているレイを見て、その質問は次の機会にしようと思った。

 気がついたら、終電の時間を過ぎていた。

 レイに替わって、今度は私が軽く休ませてもらおうと思い、目をとじた。

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島田明宏

作家。1964年札幌生まれ。Number、優駿、うまレターほかに寄稿。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』(2011年度JRA賞馬事文化賞受賞作)など多数。netkeiba初出の小説『絆〜走れ奇跡の子馬〜』が2017年にドラマ化された。最新刊は競馬ミステリーシリーズ第6弾『ブリーダーズ・ロマン』。プロフィールイラストはよしだみほ画伯。バナーのポートレート撮影は桂伸也カメラマン。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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