母を亡くした日

2016年05月28日(土) 12:00


 先週の土曜日、2016年5月21日午前5時38分、札幌の病院に入院していた母が他界した。80歳だった。

 その週の月曜日、母の主治医から携帯に連絡があった。これから学会のため神戸に行かねばならず、帰りは土曜の夜になる。息子さん(私)が先月来院したときよりさらに衰弱しており、自分が不在にしている間も心配だ、とのことだった。

 私は、その電話を新橋にあるJRAの資料室でとった。そして翌日、小桧山悟調教師から、スマイルジャックの2番目の仔が鵡川の上水牧場で生まれたとの報せを受けた。

 今すぐ危ないわけではないようだが心配だし、スマイルの仔にも会いたい。〆切ラッシュも峠を越したし、明日か明後日にでも北海道に行こう――と、さほど深刻には考えず、木曜日に札幌入りした。

 夜8時ごろ、母を見舞ったら、思っていた以上に状態が悪かった。胃ろうでの栄養摂取をやめてからさらに体重が減り、おそらく30キロを切っている。こめかみがくぼみ、泳いでいる目がなかなか私をとらえることができない。呼吸が荒い。

 母は日本舞踊「花柳流」の名取なのだが、07年ごろから、ときおり右手に持った扇子を落とすことが多くなったという。右手で箸を持つことが難しくなるほど麻痺が進み、言葉がゆっくりになったので、検査入院したのは09年の春だった。CTでもMRIでも腫瘍や血管の詰まりなどは見つからず、外科的には異常なし、という診断だった。以後、何度検査しても同じだったのだが、少しずつ麻痺の範囲がひろがって右腕全体が曲がったまま動かなくなり、数カ月後には右足に力が入りにくくなって転びやすくなり、言葉が途切れ途切れにしか出なくなり、やがてしゃべることができなくなった。

 最初は前頭葉性運動失調、次は進行性核上性麻痺、最後は大脳皮質基底核変性症と診断された。大脳皮質基底核変性症を説明するPDFを当時の主治医に見せてもらったときは、母の病状そのものだったので、気持ち悪くなったほどだ。

 いずれにしても、進行性である。つまり、悪くなる一方で、回復することはない難病、ということだ。

 車椅子に座ったままワゴンタクシーでイオンショッピングモールに行き、スターバックスでカフェモカを飲むなどしたのは、14年の秋が最後になった。15年の年明けの時点では、介助があればベッドから車椅子に移乗でき、ナースステーション前のロビーで、流動食を人に食べさせてもらうことができた。

 ベッドから離れることができなくなったのは15年の春ごろだった。胃ろうと、高カロリー点滴をするためのCVポートを埋め込む処置をしたのもそのころだ。自分の意思で体を動かすことはまったくできなくなっていた。

 言葉を発することも難しくなっていたが、「ああ」とか「あい」と返事はできた。認知はまったく問題なかった。つまり、人の言っていることはわかるのに、自分の思っていることを伝えられないという、もどかしい状態がつづいていたのだ。

 15年の初夏ぐらいまでは、ST(言語聴覚士)のリハビリのときだけ、ベッドの頭側を高くし、ゼリーやプリンなどを口から少し食べていたが、誤嚥で肺炎を発症する恐れがあるということで、口からは何もとらなくなった。

 9月ごろまでは、話しかけているうちに、ゆっくりと笑顔になることもあった。

 微熱がおさまらず、ベッドの上で体を起こすこともなくなり、本当の寝たきりになったのは秋ぐらいだったか。

 11月の初めに高熱が出て、医師から危ないかもしれないと言われ、私が飛んで行ったことがあった。

 今年の1月ぐらいまでは、ベッドの脇から「お袋、おれの言ってることわかる?」などと1時間ほど呼びかけているうちに、1、2度呼気で「ハッ」と返事をすることがあった。

 3月、私が「おれ、きょうの飛行機で東京に戻るよ」と言うと、上を向いたまま目尻からひと筋の涙を流した。

 4月、上旬に来たときより、スマイルの長女を取材するのに合わせて来た下旬は、ずいぶんやせていた。いや、小さくなっていた、と言うのが正しい。微熱の原因のひとつになっていたことが判明したCVポートを除去し、胃ろうを再開。苦痛が激しい場合は麻薬を使う。無理な延命はしない――といった治療方針を記した7枚ほどの同意書に私がサインをした。

 苦しそうに口をあけた母は私を見つめ、何かを訴えようとしていた。それが「もういい」と言っているかのようで、つらかった。

 そして、スマイルの次女を見るのに合わせて帰省した今回――。

 5月19日、木曜日。以前から母をみている看護士が、「何があってもおかしくない状態です。今夜、付き添いを希望されますか」と訊いてくれた。しかし、私は、次の日、4軒の牧場に行く約束をしていたので、「明日の夜また来ます」と実家に戻った。

 翌日、5月20日、金曜日。あまり眠れず早起きしたので、日高に行く前に母の病室に寄った。夕べとは別の看護士が「息子さん、夜になる予定だったのに今来てくれてよかったねー」と母に言った。私は「お袋、夜また来るから、それまで生きててくれよ」と冗談めかして言い、日高に向かった。

 その3日前に生まれたスマイルの次女がいる上水牧場、長女のいる三好牧場のほか、グリーチャンネル特番のロケハンとして2軒の牧場を訪ねたあと、母の病院に着いたのは夜9時過ぎだった。前夜話した看護士が「今夜は付き添われたほうがいいと思います」と言ったのだが、翌日午前中の〆切が2本あったので、最初は実家に戻ると答えた。

「では、血圧が極端に低くなるなど、容態が急変した場合のみ携帯にご連絡するようにしましょうか」と言われ、気が変わった。

「やっぱり付き添いたいのですが、この時間でも個室に移れるんですか」

「はい」

「じゃあ、実家からパソコンなどの仕事道具を持ってきます」と、再び病院に来たのが午後10時半ごろだった。

 母は、それまでいた病室の向かいの個室に移されていた。私は、母が寝ているベッドの足元にあった加湿器を載せる台にパソコンを置き、原稿を書きはじめた。スマイルの次女を紹介した、先週の本稿である。

 前日以上に母の呼吸が荒く、全力で走った直後のように胸を大きく上下させている。それだけでかなりの負担に思われた。原稿の合間に何度か枕元に行って顔を覗き込み、「お袋、大丈夫か。おれ、ここにいるからね」などと声をかけた。ときおり、スー、スーと呼吸音が静まり、眠っているのかと思って見ると、目をあけたままだ。抗パーキンソン病薬の影響なのか、このところ何日間も、目をとじることができずにいるらしい。単なる反応なのかもしれないが、動いている目のピントが私に合うこともあった。

 熱視点の原稿を編集部にメールしたのは、今ソフトを確かめたら、午前2時52分だった。

 次に、途中までになっていた、フリーマガジン『うまレター』の連載コラム「名馬がつなぐ物語」を書きはじめた。

 部屋は蛍光灯をつけていないので薄暗かったが、原稿を書きながら、視界の端に母の姿はずっと入っていた。

 原稿が9割がた終わった5時15分ごろ、それまで一定のリズムだった母の呼吸音が急に高まり、「カハッ」と咳き込むようになって、止まった。

「どうしたの」と私はすぐ立ち上がって母の肩を揺すったが、反応がなかった。ひらいたままの目から光が消える瞬間を、確かに見たように思う。

 ナースコールで看護士を呼んだ。ステーションでモニターしていた心電図はまだ動いており、呼吸もあった。が、それは残響のようなものだったらしく、やがてなくなった。

 宿直の医師が来て、時計を見て、5時38分に死亡、という診断がくだされた。

 直接の死因は菌血症、その原因となったのは尿路感染症、その原因となったのは大脳皮質基底核変性症、ということだった。

 よく「闘病」という言葉が使われるが、母は病気と闘うことなどできていなかった。ただ受け入れるだけだった。いや、私にはわからなかっただけで、力一杯闘っていたのかもしれない。体力のある人だったので、抵抗が長くなり、余計に苦しんだのかと思うと胸が苦しい。この胸の苦しさがさらに強くなって呼吸ができなくなるように逝ってしまったのかと思うと、かわいそうでならない。

 母は何日間、何週間、眠ることができずにいたのだろう。

 願わくば、意識が朦朧としている時間が長く、私が思っているほどの苦しみを味わっていないでほしい。

 せめてもの救いは、私が看取ることができたことだ。付き添うよう言ってくれた看護士のHさんには心から感謝している。

 きっと母は、寂しくはなかったと思う。

 最後のひと月ほどは苦しそうだったので、苦しい時間が終わってよかった、と思うようにしたい。

 長い闘病生活だった。寝たきりになり、言葉を発することがなくなってから、私は、初めて母の手を握り、頭を撫でた。小さいころ手をつないだことはあったのだろうが、大人になってから母の頭を撫でることになるなど、想像したこともなかった。

 元気だったころの母と背格好が似ていて、歩いている人を見るのはつらかったが、これからはどうなるのだろう。

 優しい人だった。いつも我慢ばかりしていた。

 私が本を出したり、雑誌に顔写真が載ったりすると、誰よりも喜んでくれた。

 その母はもういない。

 肉親を失う経験をした人はいくらでもいるのに、自分の弱さが情けなくなる。

 個人的なことを長々と書きつらねた不作法をお許し願いたい。

 これで島田明宏は通常営業に戻り、日曜日は東京競馬場でダービーを取材する。いいレースになってほしいと思う。

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島田明宏

作家。1964年札幌生まれ。Number、優駿、うまレターほかに寄稿。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』(2011年度JRA賞馬事文化賞受賞作)など多数。netkeiba初出の小説『絆〜走れ奇跡の子馬〜』が2017年にドラマ化された。最新刊は競馬ミステリーシリーズ第6弾『ブリーダーズ・ロマン』。プロフィールイラストはよしだみほ画伯。バナーのポートレート撮影は桂伸也カメラマン。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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