武幸四郎騎手、おめでとう

2016年12月10日(土) 12:00


 12月8日の木曜日、嬉しいニュースが舞い込んできた。2017年度の新規調教師免許試験合格者が発表され、そのなかに、武幸四郎騎手、田中博康騎手らの名前があった。

 武幸四郎騎手は、11月3日に38歳になった。今年8月に亡くなった「ターフの魔術師」武邦彦氏の四男で、武豊騎手の弟だ。長男から三男までは年子なのだが、豊騎手から幸四郎騎手までは10歳(正確には10学年)離れている。

 私が幸四郎騎手に初めて会ったのは、彼が中学1年か2年生のときだったと思う。栗東の生家にお邪魔していたら、学校から帰ってきて「こんにちは」と挨拶し、階段を上って行った。ハキハキと話す、しっかりした少年だった。そのころ、武家には「チャマ」という名のダックスフントがいて、上の兄たちはしょっちゅう間違えてチャマを「幸四郎」と呼び、そのたびに彼は怒っていたという。

 次に会ったのは、香港のシャティン競馬場のスタンドだった。1993年12月12日、豊騎手がナリタチカラで香港カップに臨み、7着になったときだ。幸四郎騎手は中学3年生で、競馬学校騎手課程の合格が決まったばかりだった。

 関係者に用意されたレストランのテーブル席でレースを見ながら、彼に「世界で一番上手いと思う騎手、ああいうふうになりたいなと思う騎手は?」と訊くと、すぐさま「キャッシュ・アスムッセンです」という答えが返ってきた。当時から彼は身長が170センチ近くあった。アスムッセンも長身の名手として知られ、172センチほどだった。長い手足で馬の行く気を抜いたり、豪快に追ったりするところに憧れたのだろう。

 その日、アスムッセンも香港ボウルで騎乗馬があり、シャティンのスタンドにいた。私は彼と面識があったので、幸四郎騎手を彼のいるテーブルに連れて行き、紹介した。

「お兄さんによく似ているね」とアスムッセンは笑って、右手を差し出した。

 それを握り返した幸四郎騎手が、相手が誰かわかっていない様子だったので、私は耳元で「キャッシュだよ」とささやいた。

「エエーッ!」と声を上げて驚いた彼は、「どうしよう、おれ、手ェ洗えへん」と嬉しそうに言った。

 その次に会ったのは、中山競馬場の検量室前で、競馬学校の実習として来ていた彼に、いるはずのない豊騎手にそっくりな声で「島田さん」と呼びかけられてギクッとしたときだったか。それとも、豊騎手の結婚披露宴が行われた95年の秋だったか。

 彼は、97年3月1日にデビューし、初勝利が翌日の重賞マイラーズカップという派手なスタートを切った。

 その後も何度か取材対象として話を聞く機会があった。

 今でもよく覚えているのは、雑談のなかで出てきた減量の話だ。177センチという長身なので、減量は毎週のことだった。ムダな肉などついていないのに、週末に向けて3キロか4キロほど落とさねばならないのだが、レースに出て、月曜日になったら、もう元に戻っているのだという。日本にモンキー乗りをひろめた保田隆芳氏も騎手時代は毎週3、4キロ落としていた。保田氏は、20歳のときから5年近く中国に出征し、軍人として過ごすうちに体質が変わってしまったようだ。減らすのは大変だが、戻るのはすぐだと、同じことを言っていた。

 幸四郎騎手の場合も、177センチの身長はどうにもできないので、減量・減食はつねについて回った。あまり人には話していないようだが、体に相当負担がかかっていたのではないか。

 そんな彼のレースを見ることができるのも来年2月末までだから、あと3カ月弱だ。そう考えると寂しいが、望んでいた新たな出発点に立つことができたのだから、祝うべきだろう。

 ――おめでとう、幸四郎君。

 JRAのリリースの「目標」に「調教師としても人間としても父親が一生の目標です」とあるのを見てジンと来た。管理馬の主戦騎手として兄を起用し、大きなところを勝って、天国のタケクニ先生を喜ばせてほしい。

 もうひとり面識のある田中博康騎手は、12月5日に31歳になったばかりだ。騎手出身としては最年少の合格だという。調教師の定年まで40年近くある。10年計画を4回も立てることができるのだから、何でもできる。

 話したことのある人はみな、好青年だと口をそろえる、礼儀正しく、頭のいい人だ。調教師として成功する未来しか思い描くことができない。調教師としては同期となる幸四郎騎手との二枚看板として注目されるだろうが、プレッシャーをエネルギーにして頑張ってほしい。

バックナンバーを見る

このコラムをお気に入り登録する

このコラムをお気に入り登録する

お気に入り登録済み

島田明宏

作家。1964年札幌生まれ。Number、優駿、うまレターほかに寄稿。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』(2011年度JRA賞馬事文化賞受賞作)など多数。netkeiba初出の小説『絆〜走れ奇跡の子馬〜』が2017年にドラマ化された。最新刊は競馬ミステリーシリーズ第6弾『ブリーダーズ・ロマン』。プロフィールイラストはよしだみほ画伯。バナーのポートレート撮影は桂伸也カメラマン。

関連サイト:島田明宏Web事務所

関連情報

新着コラム

コラムを探す