週刊サラブレッド・レーシング・ポスト

2005年01月18日(火) 14:51

 アメリカ西海岸のトップトレーナー、リチャード・マンデラ師にとって、先週は悲喜こもごもの一週間となった。

 嬉しい方の話題は、ミニスターエリックの復活である。ミニスターエリックと言えば、03年のブリーダーズCジュヴェナイルの2着馬である。3歳春はアロウワンスばかりを3戦するというユニークな臨戦態勢でケンタッキーダービーへ臨んだが、16着と大敗。その後は半年余りの休養に入った。復帰したのは11月17日にハリウッドパークで行われたアロウワンスで、ここは3着と久々を考えればまずまずの競馬をしたのだが、次走12月26日にサンタアニタで行われたG1マリブSでは7着と大敗。完全復活までにはまだまだ茨の道が続きそうな気配があった。

 そのミニスターエリックにとって復帰後3戦目のレースとなったのが、1月15日にサンタアニタで行われたG2サンフェルナンドSだった。ここでのミニスターエリックは4番人気と評価を落としていたが、9頭立ての4番手という好位につけると、直線入り口で先頭に立ってそのまま押し切るという競馬で快勝。自身初の重賞制覇を果すとともに、2歳秋に示した能力がホンモノであったことを強烈にアピールした。

 リチャード・マンデラ厩舎は、12月26日のG1マリブSをロックハードテンで制覇。年が明けて1月8日に行われたG2サンパスカルHをコングラッツで制覇と、サンタアニタの冬春開催に入って絶好調。マンデラ師といえば、97年にG1サンタアニタHにおいて1〜3着独占(1着サイフォン、2着サンドピット、3着ジェントルマン)というトンでもない偉業を達成しているが、3月5日に行われる今年のサンタアニタHでは、その再現を狙うことになりそうだ。

 一方、師にとって残念な話題が、ミニスターエリックの勝ったサンフェルナンドSで8着と大敗を喫したアクションディスデイが、このレースを最後に引退することが決まったことだろう。前段で、ミニスターエリックを03年のブリーダーズCジュヴェナイル2着馬と紹介したが、その時の勝ち馬で、同年の2歳牡馬チャンピオンに選ばれたのがアクションディスデイである。

 ミニスターエリック同様、3歳時のアクションディスデイは精彩を欠いた。シャムS、G2サンフェリペS、G1ブルーグラスSと使われ、それぞれ4着、7着、6着に敗退。3歳春の大目標だったケンタッキーダービーも、道中見せ場は作ったものの、スマーティージョーンズの6着に敗れて、その後休養に入った。

 アクションディスデイの復帰戦は、12月26日にサンタアニタで行われた芝のアロウワンスで、父クリスエス、母の父トランポリーノという血統から芝での走りを大いに期待されたのだが、9着と大敗。更に復帰2戦目のサンフェルナンドSでも8着と敗れた後、鼻出血を発症して戻ってきたことで、陣営はこの馬の再起を断念。引退・種牡馬入りが決定した。

 マンデラ師は、「この馬の復活を果せなかったことは、自分の調教師生活の中でも最も大きな悔恨の1つとなるだろう」とコメント。ケンタッキーダービー後の休養は、背中の筋肉を傷めたことが原因だったが、後から考えると、怪我の程度は当初の診立てよりも深刻だったようで、それを見抜けず調教を再開したことを心底悔いているのである。

 マンデラ師と言えば絶対に無理使いをしないことで有名で、だからこそ古馬になってからの活躍馬が多い厩舎なのだが、それだけにアクションディスデイに関しては「待てなかった」ことが、師にとっては痛恨なのだろう。アクションディスデイはケンタッキーに移動。今年の春から、キャッスルトンリオンズ・ファームで種牡馬として繋養されることになっている。

 03年のブリーダーズCで、リチャード・マンデラ厩舎は4勝という未曾有の大記録を作ったが、これでその4頭は全て現役を去ったことになった。

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合田直弘

1959年(昭和34年)東京に生まれ。父親が競馬ファンで、週末の午後は必ず茶の間のテレビが競馬中継を映す家庭で育つ。1982年(昭和57年)大学を卒業しテレビ東京に入社。営業局勤務を経てスポーツ局に異動し競馬中継の製作に携わり、1988年(昭和63年)テレビ東京を退社。その後イギリスにて海外競馬に学ぶ日々を過ごし、同年、日本国外の競馬関連業務を行う有限会社「リージェント」を設立。同時期にテレビ・新聞などで解説を始め現在に至る。

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