ある朝の闖入者

2020年10月29日(木) 12:00

 今朝の8時半ごろ、都内のマンション9階にある自宅兼仕事場でのことだった。私は1階の郵便受けから新聞を取ってきて、仕事部屋にいた。9時に理髪店に予約を入れていたので、玄関のドアの鍵は開けたままにしておいた。

「アーモンド気配抜群」という見出しの記事を読んでいると、玄関のドアから物音がした。今、家人は東京にいないので、おかしい。

 ――誰だろう?

 アマゾンに注文した本が今日届くことになっているが、置き配というのは部屋の外に置くはずだし、そもそもオートロックなので、ここまで入ってこられないはずだ。不審に思っていると、ドアが開いてドタドタと室内の廊下を歩く足音がした。慌てて仕事部屋から出ると、見知らぬ男の後ろ姿がそこにあった。グレーのパーカーにリュックを背負っている。

「こらっ、何をしている」

 怒鳴りつけると、振り向いた。

 背丈は私と同じくらいか。手に刃物などは持っていない。顔はまだ高校生ぐらいに見える。ちゃんとマスクをし、靴を脱いで上がっている。

「すいません、すいません」

 男は言いながら靴を履き、出て行こうとした。

「君は部屋を間違えたのか」

 私が聞いても、「すいません」しか言わず、出て行った。

 私も動揺していたのだろう、気がついたら、男が手を触れたところを除菌ティッシュで拭っていた。男が犯罪者なら、証拠の指紋を消してしまったことになる。

 それからまたドアを開け、小走りで逃げる男に言った。

「このマンションに住んでいるのか」

 男は答えず、振り向いてこちらに手を振った。

 バカにしているのだろうか。とりあえず、証拠保全のため写真だけでも撮っておこうと仕事部屋からスマホを持ち出し、外に出たら、男はいなくなっていた。鈍重そうに見えて、逃げ足は速い。

 住人ならまだいいのだが、今ちょうどリフォームをしている部屋が2つあり、業者が出入りするため集合玄関のオートロックを開けっ放しにしておくことがある。

 理髪店に行く前、闖入者について管理人に報告した。やはり彼は住人らしく、以前も、夏場にドアを薄く開けておいたほかの住民の部屋に入ったことがあったという。個人情報保護の問題があるので詳細は言えないというが、どうやら同一人物のようだ。

 実は、私も間違えて、8階か10階の同じつくりの部屋のドアノブに手をかけてしまったことがある。考え事をしながらエレベーターを降りて、2度ほどやってしまったのだ。彼を責めることはできない。

 それに、今あらためて、彼がドアを開けたときの記憶を反芻すると、ゴリゴリと、鍵を鍵穴に抜き差しする音が聞こえていたような気がする。

 念のため、防犯カメラをチェックすることにし、管理組合理事長の許可を取るよう管理人に頼んでおいた。本当に、その彼だといいのだが。

 私のような小市民にとっては、こうした卑近なアクシデントも、デアリングタクトとコントレイルによる立てつづけの偉業も、同じくらい大きな出来事である。

 もし入ってきたのが凶悪な窃盗団だったらと思うと、やはり怖い。本稿を読んでいる方々も、たとえ短い時間であっても、戸締りには気をつけたほうがいい。

 さて、実は先週、札幌の父にひどい黄疸が出たので、急きょ入院して手術を受けることになった。胆管が腫瘍のせいで狭くなり、胆汁の流れが悪くなっているようだ。私も札幌に飛び、優駿エッセイ賞の選考委員会当日の飛行機で帰京するなど、慌ただしかった。

 コロナのせいもあって、このところ、「普通」に過ごせることがいかに素晴らしく、ありがたいことか、よくわかるようになった。

 自分で決めた以外の何かに振り回されることなく、大過なく日々を過ごすのは、この年齢になると無理なのだろうか。10年前に「普通」だったことは、今の私にはハードルが高すぎる。つまるところ、いろいろある日常が「普通」なのだと思うしかないのだろうか。

 いつも以上にとりとめがなく、競馬に関係のない話になってしまった。

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島田明宏

作家。1964年札幌生まれ。Number、優駿、うまレターほかに寄稿。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』(2011年度JRA賞馬事文化賞受賞作)など多数。netkeiba初出の小説『絆〜走れ奇跡の子馬〜』が2017年にドラマ化された。最新刊は競馬ミステリーシリーズ第6弾『ブリーダーズ・ロマン』。プロフィールイラストはよしだみほ画伯。バナーのポートレート撮影は桂伸也カメラマン。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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