最強馬を多数保有、名伯楽アブドゥラ殿下が逝去

2021年01月20日(水) 12:00

殿下亡き後も競馬事業の運営は続けられる予定

 ジャドモントファームの名の下、40年以上にわたって数多の名馬を生産所有してきたハーリド・アブドゥラ殿下が、1月12日に亡くなった。享年85歳だった。

 その功績について、競馬ファンの皆様には今さらご説明するまでもなかろうが、20世紀最強と言われたダンシングブレーヴ、史上最強と称されるフランケル、近年世界で最もファンに愛された馬と言われるエネイブルが全て、緑地に桃の襷、白袖、桃帽というジャドモントの服色を背に走った馬たちであるという、その一事をもってして、アブドゥラ殿下がいかに偉大なホースマンであったかを、如実に物語っている。

 1977年、ニューマーケットのセールで購買した4頭の1歳馬が、殿下が所有した最初の競走馬だった。このうちの1頭であるマーズーク(父ブレイクニー)が、翌1978年8月にニューバリー競馬場のメイドンでデビュー。殿下にとって、所有馬の初出走となった。

 同じ1978年の7月、ケンタッキーの1歳馬セールで父インリアリティの牡馬を22万5千ドルで購買。ノウンファクトと命名されたこの馬が、翌1979年10月にニューマーケット競馬場のミドルパークSに優勝し、殿下に初めてのG1制覇をもたらした。

 ノウンファクトは翌1980年5月、同じくニューマーケット競馬場で行われた二千ギニーで2着に入線。その後、1着入線馬ヌレイエフが進路妨害で降着処分となり、ノウンファクトが繰り上がって優勝。殿下は初めてのクラシック制覇を手中にしている。

 その前年、ビル・ウィットマン厩舎にいたメットエアーという牝馬(当時5歳)を、繁殖牝馬として供用することを目的にプライべートで購買。これが、殿下が持った最初の繁殖牝馬となった。

 ニューマーケットに購入していた牧場の名称をジャドモントと改め、更に近隣の牧場も買収。ジャドモントファームの名のもとに、競走馬の生産を本格的にスタートさせたのが1980年だった。

 以降、自家生産馬、及び、市場における購買馬で、118頭がG1を優勝、特別勝利数は500を越えていると言われている。

 アブドゥラ殿下の逝去に際し、周囲が最も心配したのは、ジャドモントの今後だった。というのも、殿下には4人の御子息がいて、このうちアーメド・ビン・ハーリド王子と、サウド・ビン・ハーリド王子のお二人は、最近ではエネイブルが走る日の競馬場にお見えになったこともあったのだが、しかし、いずれも殿下ほどには競馬に傾倒していないと言われており、つまりは、後継者不在が囁かれていたのである。御本業である投資会社のマワリッド・ホールディング社から殿下がセミリタイヤした時には、競馬事業を全て手放すという、まことしやかな噂が世界の競馬サークルを駆け巡っている。

 それだけに、亡くなった4日後の16日に、ジャドモントファームから声明が出され、組織は変わることなく運営が続けられるとの発表があった時には、関係者もファンもおおいに安堵をしたものだ。

 声明によると、アブドゥラ・ファミリーとして競走馬の生産と所有を続けるとのことで、目前に迫っている種付けシーズンにおいても、既に亡き殿下の承認を得ていた配合計画通り、種付けが行われるとのことだ。

 ファミリーの中の誰が中心的存在となってジャドモントに関わることになるかは、現段階では不明だが、殿下のお孫さんの代に競馬が非常にお好きな方がおられるという情報もあり、お孫さんのどなたかが継承する可能性もありそうだ。

 しかし、今年初種付けを行うエネイブルの初仔も、早ければ2024年にデビューする際には、緑地に桃の襷、白袖、桃帽という勝負服を背負うことになりそうである。

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合田直弘

1959年(昭和34年)東京に生まれ。父親が競馬ファンで、週末の午後は必ず茶の間のテレビが競馬中継を映す家庭で育つ。1982年(昭和57年)大学を卒業しテレビ東京に入社。営業局勤務を経てスポーツ局に異動し競馬中継の製作に携わり、1988年(昭和63年)テレビ東京を退社。その後イギリスにて海外競馬に学ぶ日々を過ごし、同年、日本国外の競馬関連業務を行う有限会社「リージェント」を設立。同時期にテレビ・新聞などで解説を始め現在に至る。

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