第31話(最終回) 優駿へ

2012年12月31日(月) 18:00

▼前回までのあらすじ
福島県南相馬市の杉下ファームは、2011年の東日本大震災で津波に襲われた。代表の杉下将馬が救い出した牝馬は牧場に戻って牡の仔馬を産み、息絶えた。仔馬は「キズナ」と名付けられた。美浦の大迫調教師とともに訪ねてきた後藤田オーナーによって1億円で購入されたキズナは、かつての一流騎手・上川を鞍上に迎えた。一度はライバルに敗れるも、朝日杯FSを勝ち、翌2014年クラシック三冠の第一弾、皐月賞も制す。その直後、世界一の大オーナーから、破格のトレードの申し出を受けた。

『優駿へ』

 上川博貴が美浦・大迫厩舎の事務所の扉に手をかけると、中から大きな笑い声が聞こえてきた。

 間違いない。キズナのオーナー、後藤田幸介の、かすれているが、よく通る独特の声である。

 ――どうして後藤田オーナーがここに?

 近くにベンツやレクサスなどそれらしきクルマがないので、お忍びで来た、ということだろうか。

 マスコミ関係者から中が見えないよう、ほんの少しだけ扉をあけ、体を滑り込ませた。

「おお、上川君、おはよう。ようけマスコミが集まっとるようやな」

 かすかに笑っているようにも、睨みつけているようにも見える後藤田の視線は、まったく揺らぐことなく、上川の頬のあたりに注がれている。こんなふうに相手を注視しながら力関係をはかるのが、ここまでのし上がった彼の習い性となっているのだろう。

「はい。オーナーがここにいると知ったら、大変な騒ぎになりますよ」

「そやな。決まったことは早う発表せんと、妙な噂が流れてしまうわ」

「決まったこと……」

 キズナをハマダン殿下に30億円で売却することが決まった、ということか。

 上川は脱力してすべり落ちそうになった上体を、やっとの思いでソファの背もたれに押しつけて、息をついた。

「では、オーナー、お願いします」

 と大迫が立ち上がり、出入口を手で示した。

「お願いって、何を言うとんや・・・

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島田明宏

作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊ギャロップ、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。趣味は読書と読売巨人軍の応援。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。最新刊はテレビドラマ原作小説『絆〜走れ奇跡の子馬』。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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