2018年03月27日(火) 17:10 6
▲ netkeiba Books+ から「世界に挑んだサムライサラブレッド~Part1・欧州編~」の1章、2章、3章をお届けいたします。(写真:高橋正和)
今や毎年のように世界のG(グレード)レースに挑む日本のサムライ・サラブレッドたち。その道のりはドラマに溢れ、どれほどの時が過ぎようと色あせることはない。本書はこれから全4冊を通じて、その厳選の名勝負をプレイバック。豊富な資料を基に当時の興奮をよみがえらせます。第1弾は欧州編。
(文:『netkeiba Books+ 編集部』)
ヨーロッパの名門競馬場と聞いて、どこのターフを思い浮かべるだろうか。競馬の母国は英国、そして芝生は英国の文化だ。「ザ・ダービー」「ジ・オークス」(いずれもG1)が開催されるエプソム競馬場、「キングジョージ6世&クイーンエリザベスS」(G1)が開催されるアスコット競馬場が真っ先に脳裏に浮かんだとしても不思議ではない。
英国王室が所有するアスコット競馬場は、さすがに重厚な雰囲気で大きなレースが開催される日には盛装の紳士淑女が集まってくる。
キングジョージ6世&クイーンエリザベスSには、過去に日本調教馬が5頭出走し、2006年にはハーツクライが3着の成績を収めている。また、ヨーロッパの競馬界を見渡せば、「アイリッシュ・ダービー」(G1)が開催されるカラ競馬場の存在も忘れることはできないだろう。
しかし、最高峰のレースをひとつ選べと言われれば、多くの人がフランスのロンシャン競馬場で開催される「凱旋門賞 Prix de l'Arc de Triomphe」(外国では通称“l'Arc”、「ラルク」と呼ばれる。2016、2017年はロンシャン競馬場の改修工事のためシャンティイ競馬場で開催)を思い描くに違いない。
じつは、英国で生まれた競技の世界一を決める大会としてフランス人による興行が定着しているというのは、めずらしいことではない。サッカーも競馬同様、英国発祥の競技だが、FIFAワールドカップはジュール・リメというフランス人の発案で始まった。近代オリンピックの父、ピエール・ド・クーベルタンもフランス人。また、万国博覧会もフランス革命期のパリで始まったものだ。フランスという国には、世界中の人々を引き寄せる磁力のようなものがあるのだろう。そして凱旋門賞も、世界中のホースマンたちが目指す競馬界のアイコンとして歴史を重ねてきている。
この凱旋門賞に、日本からも多くの競走馬が挑んできた。日本調教馬による挑戦は、キングジョージ6世&クイーンエリザベスSが過去5頭であるのに対し、凱旋門賞では2017年までで延べ22頭が出走してきた。
最初の挑戦は、約半世紀前の1969年、第48回大会に出走したスピードシンボリである。
(2章につづく)▲ netkeiba Books+ から「世界に挑んだサムライサラブレッド~Part1・欧州編~」の1章、2章、3章をお届けいたします。(写真:1969年有馬記念/日刊スポーツ/アフロ)
1965年デビューのスピードシンボリは、1967年には目黒記念・春、天皇賞・春を含めて4連勝を飾り、6戦4勝。この年11月12日に米国のローレル競馬場で開催されたワシントンDC国際で招待馬として海外初挑戦。単勝オッズ21倍という最下位の人気ながら5着に入る力走を見せた。
続く1968年は3連勝を含み7戦3勝。さらに翌1969年、今度は目黒記念・春、ダイヤモンドSで連勝すると、夏から秋にかけて当時としては前例のない長期ヨーロッパ遠征に出たのである。
この遠征で最初のチャレンジとなったのは、7月26日に英国アスコット競馬場で開催されたキングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドSだった。このビッグレースでスピードシンボリは5着に入る健闘を見せる。実際、鞍上の野平祐二騎手は、最後の直線に入り「これは、いける!」という手応えを感じたとレース後に語っている。しかし、そう思った直後、4頭の馬に次々と抜かれていった。当時の日本のトップと言ってもいい競走馬と騎手が肌で味わった“世界との差”と言えるだろう。
続く8月31日にはフランス・ドーヴィル競馬場でドーヴィル大賞典に出走し、11頭中10着。このドーヴィル大賞典は、スケジュール的にも凱旋門賞の前哨戦として格好のレースだったが、またしても“世界との差”を味わう結果となった。
そして10月5日、いよいよヨーロッパ遠征の集大成となる凱旋門賞に臨むが、ここでも着外(11着以下)という結果に沈んでしまう。
1969年といえば「1ドル=360円」の固定レートの時代である。海外挑戦が、いまとは比べものにならないほどハードルが高かった当時、前例のない長期ヨーロッパ遠征を敢行した和田共弘オーナーの決断は評価に値するが、突きつけられた結果は、あまりに苦かった。なにしろスピードシンボリは帰国後の同年12月21日の有馬記念で勝利。さらに翌1970年度末の有馬記念でも勝利し、連覇を達成するのだ。日本国内では圧倒的な実力を示しただけに、“世界との差”が過酷な現実として日本のホースマンと競馬ファンに突きつけられた。
ヨーロッパのコースは、日本の競馬場と比べれば、はるかに起伏が激しい。逆の言い方をすれば、日本のコースは人工的。平坦な、人工的コースでいくら勝利を重ねても、本場の競馬では勝てないのだろうか。日本のホースマン、競馬ファンたちは、この命題に挑み続けることとなる。
(3章につづく)▲ netkeiba Books+ から「世界に挑んだサムライサラブレッド~Part1・欧州編~」の3章をお届けいたします。(写真:1985年キングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドS/今井寿恵)
1969年のスピードシンボリ以降も、日本調教馬の凱旋門賞挑戦は続いた。たとえば1972年にはメジロムサシが出走したが、19頭中18着に沈んでいる。
そして1986年。この年の凱旋門賞ではスピードシンボリと同じ和田共弘オーナーが、1985年の日本ダービー馬・シリウスシンボリに雪辱への思いを託した。
1985年日本ダービー