■最終回「笑顔」

2015年10月05日(月) 18:00

【前回までのあらすじ】
容貌魁偉の調教師・徳田伊次郎、32歳。亡き父の跡を継ぎ、南関東で6馬房の厩舎を構えている。厩舎は三流で、従業員は無気力。伊次郎は厩舎改革にとりかかった。急にレースぶりがよくなった徳田厩舎に売り込みをかけてきた一流騎手の矢島が、センさんの担当馬クノイチの主戦となった。クノイチは、僚馬のシェリーラブとともに重賞のレディーススプリントに出走し、優勝した。


 勝った。徳田伊次郎が管理するクノイチが、牝馬限定重賞のレディーススプリントのゴールを、今、確かに、先頭で駆け抜けた。

 もう1頭の管理馬であるシェリーラブは5馬身ほど離された4着だったが、健闘したと言えるだろう。

 夢心地というのは、こういうことを言うのだろうか。自分がどうやってこの検量室前まで降りてきたかも、まったく覚えていない。

 管理馬から下馬して右手を差し出してくるのは、全国で知らぬ者のない一流騎手だ。仙人のような白髪頭だった厩務員が別人のようにダンディになり、ケチで強欲だった馬主と抱き合って泣いている。

 あまりに現実感がないので、見えるもの、聞こえてくるものが一瞬のうちに消え去ってしまうのではないかと恐怖を覚え、その恐怖感のほうが喜びよりもリアルに感じられるほどだった。

 無理もない。ほんの数カ月前まで、いつ解散しても不思議ではなかった三流厩舎の馬が、重賞を勝ってしまったのだから。

 センさんが枠場前の広場でクノイチを曳き、クールダウンさせている。クノイチはものすごい量の汗をかき、まだ苦しそうに息を乱している。

 勝って、こうして馬の状態を見て、初めて実感したことがある。

 それは、ダメ厩舎と呼ばれていたころから今に至るまで、普通の人間には耐えられないような重労働をスタッフに課したり、並の馬ならパンクしてしまうような負荷を馬にかけたわけではない、ということだ。意識の上では大改革をしたつもりだったが、・・・

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島田明宏

作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊ギャロップ、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。趣味は読書と読売巨人軍の応援。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。最新刊はテレビドラマ原作小説『絆〜走れ奇跡の子馬』。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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