養老牧場の「落ち着ける感」

2016年07月09日(土) 12:00


 札幌から西へクルマを走らせ、小樽、余市を通って2時間ほど。海辺にひらけた岩内町にある養老牧場「ホーストラスト北海道」に新しい仲間が加わったというので、また遊びに行ってきた。

 その新顔というのは、今年17歳になったローマンエンパイア(セン、父サクラローレル、浦河・中島牧場生産)である。

馬房から顔を出して外を眺めるローマンエンパイア。

 新馬、500万特別を連勝して臨んだ2002年の京成杯で、母が1994年の旧3歳女王ヤマニンパラダイスという良血馬ヤマニンセラフィムと1着同着となり3連勝。つづく弥生賞で半馬身差の2着となって、2番人気で皐月賞を迎えるも14着に惨敗。その後も、鮮やかな差し切り勝ちを決めたり、ふたケタ着順に終わったり……と浮き沈みの激しい競走生活を送った個性派だ。

 07年限りで現役を退き、08年から故郷の中島牧場で種牡馬になった。そしてこの春、最後の種付けを行ってから去勢され、6月27日、ホーストラスト北海道に移動してきた。

 私が見に行ったのは、ここに来てから9日目の7月5日。ようやく環境の変化に慣れてきたころだった。

 上の写真を見てわかるように「この馬はかじるので近づかないでください」と注意書きがあったが、私が顔を撫でてもおとなしくしていた。「昨日から急に落ちついてきたんですよ」と、ホーストラスト北海道代表の酒井政明さん。「これから、そこの放牧地に出してみます」と、馬房から放牧地へとローマンを曳いて行く。

ホーストラスト北海道に来てから初めて放牧地へ。曳いているのが代表の酒井さん。

 放牧地というか、広めのサンシャインパドックといった感じのスペースに出たローマンは、最初のうち、脚元の匂いを確かめたり、周囲を見回して警戒するような素振りを見せていたが、やがて嬉しそうに飛び跳ね、久しぶりの放牧を満喫しているようだった。

放牧地に出たローマンエンパイア。自分の縄張りと認識していいのかを確かめているかのようだった。

 元気よく跳ね回りながら、不意に私たちの前で立ち止まって、どうしたのかなと思って見ていると、水桶に溜まった水をゴクゴク飲みはじめた。

 それまでまったく水桶を気にしていないように見えていたのだが、しっかり観察していたらしい。遊びに夢中になっているように思わせて、冷静な一面を失わない。頭のいい馬なのだ。

 酒井さんによると、今は少しずつエサを調整し、栄養価の高い飼料から、草中心へと移行している段階だという。草だけを食べるようになって1カ月もすれば、本来の草食動物としての性質をとり戻すのか、おとなしくなる馬が多いようだ。

「草だけ」といっても、毎朝収牧した全頭に、塩、カルシウム、ビートパルプなどを与えている。そのとき馬体をブラッシングしたり、健康チェックなどをするのだが、ここと近くの共和町の厩舎を合わせて、サラブレッドだけで30頭ほどもいる。その作業を、酒井さんとスタッフの土舘麻未さんのふたりだけでしているので、5時間ほどもかかるという。

 というわけで、ホーストラスト北海道では、現在、スタッフを募集中とのこと。馬が好きで、引退馬に興味のある人は、公式サイト(http://www.horse-trust.jp/hokkaido.html)を参照のうえ、ぜひ。

 もう1頭気になっていたのは、去年の11月、馬体がガレた状態でここに移ってきたヤマニンキングリー(セン11歳、父アグネスデジタル)だ。

 この春できた新しい放牧地にいるというので、案内してもらった。

 そこはゆるやかな傾斜地で、入口から少し上ると、眼下に美しい眺めが現れ、ちょっと驚かされた。

新しい放牧地からは岩内の街並みと海が見える。左からヤマニンキングリー、ジャックモンティ、アドマイヤチャンプ、ウインギガシャトル。

 酒井さんは、この放牧地の出入口付近にもうひとつ事務所のような建物をつくりたいと話していた。が、私は、こうして海の見える高さのところに、見学者が食事をしたり、宿泊できる建物をつくってはどうか、と、勝手な提案をした。夕陽が海に沈む眺めも、岩内の夜景もきっと綺麗だろう。さらに、ニセコの乗馬施設の機能をここに移転し、近くをトレッキングできるようにすればなおいいのではないか。酒井さんも土舘さんも乗馬の指導ができるから……いや、これ以上ふたりの仕事を増やすのは酷だ。言うのはタダ、の典型だと、聞き流してください。

 ヤマニンキングリーの今の状態は、あれこれ書かなくても、この写真を見てもらえればわかると思う。

ヤマニンキングリー。馬体には張りがあり、胸前の逞しさは競走馬時代と変わらないくらいだ。

 すっかり健康をとり戻したキングリーは、この放牧地のボスだという。以前は、ここにかつてのボス、エイシンキャメロンも放牧されていたのだが、1頭だけ仲間外れにされるようになったので、ほかの場所に移動したとのこと。馬同士もいろいろ大変なのである。

 今回も、すっかり長居してしまった。ここにお邪魔するたびに思うのだが、この独特の「落ち着ける感」はどこから来るのだろう。

 私は、馬券から入って競馬が好きになり、検量室前やトレセンなどで舞台裏の人馬の動きを見て、生産牧場や種馬所などで人々が馬に託す思いなどに触れてきた。

 人間がどんな夢を持って、どんな馬がつくられ、どんなふうに育てられ、どんなふうに戦い、どんなふうに引退し、そして最後は……と行き着く先の、ひとつの理想の形をここホーストラスト北海道で示され、納得できるというか、あたたかな安堵感を得られることが、この「落ち着ける感」につながるのか。

 本州が梅雨時の今が一番北海道のよさを堪能できる。牧草の刈り取りなどで忙しい時期が過ぎたら、また遊びに行こうと思う。

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島田明宏

作家。1964年札幌生まれ。Number、優駿、うまレターほかに寄稿。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』(2011年度JRA賞馬事文化賞受賞作)など多数。netkeiba初出の小説『絆〜走れ奇跡の子馬〜』が2017年にドラマ化された。最新刊は競馬ミステリーシリーズ第6弾『ブリーダーズ・ロマン』。プロフィールイラストはよしだみほ画伯。バナーのポートレート撮影は桂伸也カメラマン。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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