トウショウフェノマ 24歳での旅立ち「強い馬だったと思います」

2016年09月06日(火) 18:01

第二のストーリー

▲19日に24歳でこの世を去ったトウショウフェノマの生涯を追う(写真提供:引退馬協会)

亡くなってからも考えさせられることが多い

 1994年の新潟3歳Sに優勝したトウショウフェノマ(セン)が、8月19日、24歳でこの世を去った。昨年11月に取材をした時には腰が悪い以外は若々しい表情をしていたし、今年6月の引退馬協会のイベント時にも元気そうなフェノマに会っていたので、まさかこんなに早く天国へと旅立ってしまうとは想像もできなかった。

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▲主がいなくなった馬房の中

 トウショウフェノマは1992年5月29日に、トウショウ牧場で生まれている。父は天馬と言われたトウショウボーイ。フェノマの母は、1980年のクイーンCの勝ち馬のポリートウショウだ。

 競走馬時代は尾形充弘厩舎に所属。新馬戦、新潟3歳S(GIII)とデビューから2連勝し、将来が嘱望された。しかし、京成杯(GIII)で競走中止をするなどうまくリズムに乗れず、クラシック戦線でも皐月賞は出走取消、日本ダービーは10着と精彩を欠いた。その後も勝ち星を挙げられず、2連勝時の輝きを取り戻せないまま競走生活を終えている。

 引退後のフェノマは故郷トウショウ牧場で、育成馬たちの調教パートナーとして第二の馬生を過ごしていた。しかし、肩を痛めてその仕事もリタイア。現在の認定NPO法人引退馬協会の前身、イグレットフォスターペアレントの会のフォスターホースとなることが決まり、千葉県の乗馬クラブイグレットへと移動してきた。

 最初は人も乗れないくらいにうるさい面があり、人間に対して強がった態度を見せていたという。ところが肩や腰が悪かったために、引退馬協会の会員さんの乗馬体験からも早くに引退すると、次第に気性がおっとりとしてきて、年齢を重ねるごとに人寄りの性格へと変わっていった。こうして穏やかになったフェノマは、やがて朝の馬房掃除の時間帯に、クラブの敷地内を気の向くまま闊歩する自由人となったのだった。

「人が曳き手と尻尾を持ってバランスを取りながら、坂道の草地の中を歩くのを、亡くなる日までずっと続けていました。腰の神経が麻痺していて、後ろの脚がどうしてもヨレヨレしていましたし、尿も少しずつ出てしまうので、フェノマ本人は生活しづらかったと思います。ただ寝たり起きたりは全く人の手を借りることはなかったですね」と、引退馬協会代表の沼田恭子さんは、ここ最近の様子を教えてくれた。

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▲人が曳き手と尻尾を持ってバランスを取りながらの曳き運動(写真提供:引退馬協会)

 フェノマの日常の世話を担当していたのは、乗馬倶楽部イグレットのインストラクター、平良朋幸さんだ。競馬好きが高じて引退馬協会の事務局がある乗馬倶楽部イグレットに就職をして、約9年になる。平良さんが働き始めた時には、フェノマは既にイグレットの住人で、前任者から引き継ぐ形で同馬担当となった。

「1番最初に倶楽部のチーフ(沼田拓馬さん)に『乗り手の指示を無視するから』と言われました(笑)。進めという指示を出しても、わかっているのに反応しないという…。実際、頑固な部分がありましたね。

 フェノマに乗っている時は、怖いというイメージしかなかったです(笑)。腰がそれほど悪化していない時には、フラットワーク(常歩、速歩、駈歩)も普通に行っていたのですが、風が強い日はすごく物見をするんです。それでよくスピンをして、気づいたら馬場の奥から入り口まで突っ走られました(笑)。ものすごい力で引っ張られて(笑)。

 騎乗に関しては、怖い思い出しかないですね(笑)。乗るのが憂鬱でできれば乗りたくなかったです(笑)。それでも落ちたことは1回もなかったですね。腰が悪化してからは常歩だけになりましたが、おととしまでは乗っていました」(平良さん)

 と、フェノマとの日々を振り返った。

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▲トウショウフェノマの担当平良朋幸さん

 腰がだいぶ悪くなってからは、日によっては乗り運動で真っすぐ歩くのが難しかったり、尻もちをつきそうになることもあり、前述した通り、後ろにも人がついて尻尾を持ってバランスをとっての曳き馬の運動に変更された。

「尻尾を持たないと曳き馬ができない状態だったのですが、放牧の自由人の時だけは自分で馬房を出て行って自分で帰って来るんですよ。人がさせる運動となると、自分からは全くやらないところをみると、きっと人に何かをされるのが嫌なんでしょうね」(平良さん)。

 しかし、悲劇は突然訪れた。8月19日の朝、外で転倒してしまったのだ。

「慌てやすい性格ですし、何かされることに対して衝動的に逃げようとする行動に出やすい面がありましたので、まずは興奮が落ち着いてからと様子を見ていました。そのうち左後ろ脚の感覚がなくなってきて…。それがお昼前くらいでした」

 平良さんが倒れた日の様子を語り始め、沼田さんが言葉を継いだ。

「みんなで起こして支えるのですが、両方の後ろ脚がつけない状態でした。骨折しているわけではないのですが、神経が通っていない感じでしたね。馬がその気になって立ち上がるのを待ちながら、冷やしたりマッサージをしたりマッサージクリームを塗ったりして、時折起こそうと何回か試しましたが、やはり後ろ脚に力が入りませんでした。

 このままだと厳しいかもしれないと話をしていると、夕方4時くらいにいきなり目付きが変わり、頑張るよみたいな感じになったので、みんなでまた支えようと集まりました。みんなで励ましましたがなかなかうまくいかなかったんですね。それで何回目かに立ち上がろうとした時に、急に痙攣がきたんです。きっとものすごい勢いで頑張ろうとして、心臓に負担がかかったのだと思いますね」(沼田さん)

 朝倒れて、息を引き取ったのが16時半。心臓麻痺での最期だった。

「腰が悪くておぼつかない歩き方をしながらも、厩舎の中では寝起きも自分でちゃんとできていましたし、人を頼るような馬ではなかったですよね。後から考えてみれば、強い馬だったのだなと思いますね」

 沼田さんは、フェノマの亡くなった時の様子とも重ね合わせ、同馬の持つ強靭さを改めて感じているようだった。

 一方平良さんは、フェノマが息を引き取ったその瞬間には立ち会っていなかった。

「何度か立ち上がろうとしていましたので、しばらく休ませれば大丈夫じゃないかと思って、餌の準備のために一旦その場を離れたんです。それで餌を作っている最中に、以前フェノマと同じように腰が悪くて亡くなった馬の姿が、いきなり僕の頭の中に入ってきたんです。その直後にチーフから亡くなったと知らされました。以前亡くなったその馬が、多分フェノマを天国に導いてくれたんじゃないかなと思いました」(平良さん)

 誰にも頼らずフェノマらしい逝き方だったと沼田さんと平良さんは思ってはいても、イグレットにいるのが当たり前のようになっていた同馬がいなくなった寂しさは日がたつにつれて増していった。

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▲トウショウフェノマの馬房から見える景色(写真提供:引退馬協会)

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▲トウショウフェノマが亡くなるまでそばについていた犬、おてんとさん

「直後はピンと来なかったのですが、週明けくらいから脱力感というか、仕事に身が入らないというか。中学2年から馬に携わっていて、その間、付き合ってきた馬が亡くなった経験もしていますが、こういう感覚は初めてなんですよね。それまでは特別意識はしていなかったのですが、自分の中ではフェノマの存在は大きかったのかなと思います。亡くなってからも、いろいろ考えさせられることも多いですしね」(平良さん)

 それだけフェノマと平良さんの関係は長く濃く、強い絆もできていたのだろう。

 フェノマについて話を聞いたのは、引退馬協会のイベントがあった8月28日だった。

「亡くなってからは2人で慰めあったりしてましたけど、それも今日を区切りにしましょうと話をしていたんですよ」と沼田さんは取材の最後に言った。

 いつまでも悲しむのではなく、気持ちを切り替えてそれぞれの仕事を果たしていくことが、自分をしっかり持って誇り高く生き抜いたフェノマへの最大の供養になる。沼田さんも平良さんも、そう考えているようだった。


乗馬倶楽部イグレット

〒287-0025 千葉県香取市本矢作225−1

月曜日休み

見学時間 10:00〜16:00

電話 0478-59-1640

NPO法人引退馬協会

住所は乗馬倶楽部イグレットと同じ

メールアドレス info@rha.or.jp

公式HP http://rha.or.jp 公式Facebook https://ja-jp.facebook.com/nporha

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佐々木祥恵

北海道旭川市出身。少女マンガ「ロリィの青春」で乗馬に憧れ、テンポイント骨折のニュースを偶然目にして競馬の世界に引き込まれる。大学卒業後、流転の末に1998年優駿エッセイ賞で次席に入賞。これを機にライター業に転身。以来スポーツ紙、競馬雑誌、クラブ法人会報誌等で執筆。netkeiba.comでは、美浦トレセンニュース等を担当。念願叶って以前から関心があった引退馬の余生について、当コラムで連載中。

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