前田長吉の足跡を辿って

2017年08月19日(土) 12:00


 今年も相馬野馬追取材のあと、青森県八戸市まで足を伸ばした。最年少ダービージョッキー・前田長吉(1923-1946)の足跡を再確認するためである。

 八戸は静かな街というイメージを抱いていたのだが、着いたら三社大祭の前夜祭の真っ最中で、中心部はものすごい人出だった。華やかな装飾が施された大きな山車がいくつも出ていて、それに乗った子供たちが歌ったり太鼓を叩いている。少し歩くにも、人の波をかき分けなければ前に進めない。街の表情を変えるのは、ビルや道路や街路樹などではなく、そこに集う人々なのだと、あらためて気づかされた。

 翌朝、前田長吉の兄の孫で、本家嫡男の前田貞直さんのお宅を訪ね、長吉の遺品などを見せてもらいながら、話をうかがった。

 前田長吉は、1923(大正12)年2月23日、青森県三戸郡是川村(現・八戸市是川)で生まれた。

 本人が「優駿」に記した手記によると「十七のとしに今は亡くなられた北郷先生のところへ弟子入りをしたのが最初」とある。これは数え年の17歳だったことが、彼が長兄の長太郎に出したハガキの消印からわかった。前述の手記に「弟子入りして半年目に北郷先生が亡くなられた」とあり、ハガキに「尾形厩舎へ二月一日から弟子に成りました」と記されていたので、長吉が家出同然に生家を出て上京したのは1939(昭和14)年の夏ごろだったことが推測できるようになった。

 その時期を、さらに限定できる資料が、次の写真だ。

長吉の通帳に捺された判の日付から、上京時期が推定できる

 この通帳は、2015年春に競馬博物館で行われた特別展でも展示された。私は、彼がクリフジでクラシックを勝ったころに得た進上金が、当時の貨幣価値に照らし合わせても充分高額だったことばかりに注目して気づかなかったのだが、お金が払い込まれたことを示す判の、一番古い日付を見ると、「昭和14年7月3日」になっている。このときにはもう、長吉は府中の北郷五郎厩舎で働き、調教騎乗なり、その他の仕事に対する報酬を得ていたわけだ。北郷が亡くなった日が不明なので、その半年前に弟子入りしたという長吉の上京時期をピンポイントで特定することはできなかったのだが、この判の日付から、遅くとも7月上旬には東京にいたことがわかった。

 長吉は、1939年の7月上旬か6月ごろ、上京して北郷厩舎の下乗りになったと思われる。

 長吉は、20歳だった1943年にクリフジで変則三冠を勝ち、翌1944年、ヤマイワイで桜花賞を制して、クラシック4勝目を挙げた。しかし、戦況が悪化し非常時だったため、1944年の競馬は観客がおらず馬券を売らない能力検定競走として行われ、6月18日のレースが、長吉にとって最後の実戦騎乗となった。

 彼が臨時召集された日付、つまり、召集礼状、いわゆる赤紙を受けとって、指定された場所まで来るよう命じられた日付は、この1944(昭和19)年の10月14日であった。

 彼の長兄の長太郎と、甥の長一(貞直さんの父。2006年逝去)が記したと思われるメモには「昭和十九年十月十三日出発」として、長吉に餞別を送った人の氏名と金額が記されている。彼は、召集日前日の10月13日に親族とともに3つの神社にお参りしながら八戸駅(現在の本八戸駅)まで歩いて汽車に乗り、第107師団の兵士が集まった弘前に向かったと思われる。

 その後、いつ旧満州にわたったのかは不明だったが、同じメモの別のところに、次のような記述があった。

長吉の長兄・長太郎か、甥の長一によるメモ。「長吉」という文字が2カ所に見える

 右から2行目は「十二月四日 長吉入営の為帰農」と読める。その左に「長吉五日」とあるから、長吉は12月5日に入営した、という意味だろう。

 この「入営」が、弘前から、第107師団の駐屯地である旧満州のアルシャンへと向かった、ということなのかもしれない。

 これらの日付は、この年の4月に16歳で農兵隊入りした長一の動きを記したものである。長一は、長吉の甥といっても5歳若いだけだったので、互いによく知っていたはずだ。

 この部分は、叔父のことを思い、長一が備忘録として記した可能性もあるが、このとき41歳で、長吉の親代わりのような存在だった長太郎が書いたものではないか。

 なお、右下の「典右門」とも読める文字の解読を、長一と同じ1928年に生まれた岳父に依頼したところ、「典」ではなく、「与」の旧字の「與」ではないか、ということだった。貞直さんに確かめると、親戚に「與右エ門」という人がいたという。

 さて、次の写真は、2足残っていた長吉の長靴のうちの1足に入っていた、木製のシューキーパー(ブーツキーパー)である。

前田長吉の遺品である長靴に入っていた木製のシューキーパー

シューキーパーの裏には、それぞれ「右」「左」と鉛筆で記されている

 これまで、長靴のうち1足は、シューキーパーが入ったまま保存されていたのだが、2つのパーツを合わせて差し込む形状なので、内側に何か書かれているのではないかと、先日、貞直さんが抜きとったという。すると、案の定、左右それぞれの内側に「右」「左」と鉛筆で記されていた。

 はたしてこれは、長吉が書いたものなのだろうか。

 これらの文字と、長吉が実家に出したハガキや、番組表に記したメモなどの字を照らし合わせ、同じ部首の書き方を見比べた。すると、「右」という字の「口」を「乙」のように書くところや、「左」の「エ」を「ヒ」のように書いているものと、「此」や「牝」の「ヒ」を比べると、同じ癖が見られる。

 シューキーパーに書かれた文字は、長吉の直筆と見て間違いないだろう。

 鉛チョッキに入れる鉛の板ひとつひとつに「前田」と記していたのと同じように、長吉の几帳面な性格がしのばれる。

勲八等白色桐葉章授与の証書

 上の写真は「勲八等白色桐葉章(くんはっとう はくしょく とうようしょう)」授与の証書である。勲章そのものも、最近貞直さんが見つけたという。

 すでに廃止された勲章で、位置づけも最下位のものではあるが、前田長吉という若者が確かにいたことを示す、貴重な資料であることに違いはない。

昨年完成した長吉の墓碑の脇に、今年花台が設置された

 長吉は、終戦後、旧ソ連に抑留され、シベリアの収容所で強制労働に従事。1946年2月28日、チタ州ボルトイ収容所で栄養失調のため戦病死した。23歳になったばかりだった。

 その60年後、奇跡が起きた。

 2006年の初夏、DNA鑑定で本人確認された遺骨が八戸の生家に「帰郷」したのだ。

 若き天才騎手・前田長吉。

 その短い生涯に思いを馳せると、今も、さまざまな感情が胸に湧いてくる(文中一部敬称略)。

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島田明宏

作家。1964年札幌生まれ。Number、優駿、うまレターほかに寄稿。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』(2011年度JRA賞馬事文化賞受賞作)など多数。netkeiba初出の小説『絆〜走れ奇跡の子馬〜』が2017年にドラマ化された。最新刊は競馬ミステリーシリーズ第6弾『ブリーダーズ・ロマン』。プロフィールイラストはよしだみほ画伯。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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