最年少ダービージョッキーも地方競馬出身!?

2017年11月09日(木) 12:00


「島田さん、少しやせたんじゃない?」

 先日、一年ぶりに会った吉永みち子さんにそう言われた。

「そんなことないです。体重は変わってないのに、いつも『やせたね』って言われる顔なんです」

「あら、いいわね。私なんてまた太っちゃって、和室の布団で寝たら起き上がるのが大変で、困っちゃうわよ」

 と笑いながらも、料理と酒を口に運ぶペースがまったく落ちない。

「病気になるとやせますよね。ということは、最初からやせておけば病気にならないんじゃないですか」

 と私が向かいの席の大崎善生さんに同意を求めると、大崎さんは首を横に振った。

「いや、もっとやせるだけでしょう」

「そうですかね……」

 話はそこで終わったのだが、後日、久しぶりに体重計に乗って、驚いた。

 本当にやせていた。思っていた体重より3キロほど軽くなっており、15%以上あった体脂肪率が10%台になっている。

 そういえば、武豊騎手や角居勝彦調教師など、たびたび顔を合わせる人からは何も言われていないが、松田大作騎手と久しぶりに話したときは「やせたんじゃないですか、大丈夫ですか?」と心配そうな顔をされたことを思い出した。

 そうしたことを知るよしのない知人が、私の夢を見た、と連絡をくれた。

 最年少ダービージョッキー・前田長吉の兄の孫の前田貞直さんである。

 貞直さんは、夢に私が出てきたことが気になり、長吉のことではないかと前田家本家の居間の棚をあらためたところ、賞状などを入れる筒が出てきたという。

 貞直さんが送ってくれた、筒の中身の写真を見て、私の体重のことなどどうでもよくなった。

 それは、1938(昭和13)年8月30日に帝国馬匹協会から長吉に与えられた、地方競馬騎手講習会の講習証書だった。長吉は15歳。家出同然に八戸の生家を飛び出して府中の北郷五郎厩舎に入門したのは16歳のときだ。つまり、長吉は、上京して府中で公認競馬(中央競馬の前身)の騎手になる前に、地元で騎手としてレースに出場していた可能性が出てきたのだ。

帝国馬匹協会より前田長吉に与えられた第25回地方競馬騎手講習会の講習証書

帝国馬匹協会より前田長吉に与えられた第25回地方競馬騎手講習会の講習証書

 帝国馬匹協会の会頭として名が記されている松平頼寿(まつだいら・よりなが)は、旧高松藩主松平頼聰の息子で、貴族院議員などを歴任し、1936年に設立された日本競馬会の初代理事長となった人物だ。副理事長を「日本競馬の父」安田伊左衛門がつとめ、2年後に理事長になっている。

 と、あれこれ周辺情報を書きすぎるとテーマが見えづらくなるので、ここで「主役」の前田長吉の経歴を簡単に紹介したい。

 前田長吉は1923(大正12)年2月23日、青森県三戸郡是川村(現八戸市是川)の農家に生まれた。

 16歳のとき、1939年の初夏に上京し、府中の北郷五郎厩舎に入門。

 1940年2月、尾形藤吉厩舎に移籍。

 1942年5月に府中で騎手デビュー。

 1943年6月6日、牝馬クリフジに乗り20歳3カ月の最年少記録で日本ダービーを優勝。

 1944年秋、旧満州に出征。終戦後、旧ソ連のシベリアに抑留され、1946年2月28日、ボルトイ収容所で戦病死した。23歳になったばかりだった。

 そして2006年初夏、DNA鑑定で本人確認された遺骨が八戸の生家に「帰還」した。

 今、ここに「1942年5月に府中で騎手デビュー」と記したが、ひょっとしたら、1938年夏に地方競馬の騎手講習会を受けてから、翌39年初夏に上京するまでの1年弱の間に、地元の八戸競馬場あたりでデビューしていたかもしれないのだ。

 青森に3つあった競馬場のうち、長吉が騎手講習会を受けた1938年も開催が行われていたのは八戸競馬場だけだ。八戸は昔から競馬が盛んな地域で、1910年の開催を報じた記事には「観客は七千程」だとか「見物無用三萬人」などと記されているほどの賑わいだった。1927年、長吉の生家から直線距離で5キロほどのところに新装八戸競馬場がつくられた。馬券発売が認められていたのは公認競馬の11場だけだったので、八戸競馬場では投票券付きの入場券が売られていた。

 しかし、1939年4月、軍馬資源保護法が公布され、軍馬の鍛練競走が行われることになり、八戸競馬場での開催が休止された。八戸を含む青森県の競馬場で開催が再開されるのは戦後まで待つことになる。

 ということは――。

 長吉は、地方競馬の騎手として八戸でデビューしたが、数カ月で開催が休止になったため、新たな活躍の場を求めて上京を決意したのかもしれない。

 前田貞直さんが送ってくれた一葉の写真から、ひとつの新事実と、いくつもの可能性が明らかになり、想像をふくらませる材料が得られた。貞直さん、ありがとうございました。

 話は変わるが、牝馬として初めて南関東三冠馬になったロジータが昨年暮れに亡くなっていたことを、川崎競馬組合のリリースによって知った。天国ではなく故郷の牧場にいると思い、月刊誌のコラムに「孫やひ孫の奮闘ぶりを伝えたい」と書いたばかりだった。歴史的名牝の冥福を祈りたい。

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島田明宏

作家。1964年札幌生まれ。Number、優駿、うまレターほかに寄稿。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』(2011年度JRA賞馬事文化賞受賞作)など多数。netkeiba初出の小説『絆〜走れ奇跡の子馬〜』が2017年にドラマ化された。最新刊は競馬ミステリーシリーズ第6弾『ブリーダーズ・ロマン』。プロフィールイラストはよしだみほ画伯。バナーのポートレート撮影は桂伸也カメラマン。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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