ネーハイシーザー 功労馬としての第三の馬生

2017年12月25日(月) 18:00

第二のストーリー

▲2011年11月に現在暮らしている荒木牧場に移動したネーハイシーザー、提供、荒木牧場

「馬が馬を呼ぶ」セキテイリュウオーとの不思議な縁

 ネーハイシーザー、27歳。1994年の秋の天皇賞馬は今、北海道新ひだか町の荒木牧場で功労馬として第三の馬生を送っている。

 ネーハイシーザーが生まれたのは、1990年4月27日。父サクラトウコウ、母ネーハイテスコ、母父テスコボーイという血統で、浦河町の大道牧場の生産だ。父サクラトウコウは、1988年の日本ダービー馬サクラチヨノオーの全兄で、朝日杯3歳S勝ちのサクラホクトオーの半兄にあたる。自身は1983年の函館3歳S、1986年の七夕賞(GIII)を制している。母はサクラセダン。

 母父のテスコボーイは、息子のトウショウボーイとともに、種付け料のわりに産駒が高額で売れることから、馬産地の「お助けボーイ」と称されていた1970年代を代表する名種牡馬だ。皐月賞&菊花賞馬のキタノカチドキ、菊花賞馬のインターグシケン、皐月賞、有馬記念、宝塚記念等に優勝した天馬トウショウボーイ、サラ系の皐月賞馬ランドプリンス、桜花賞、オークスと牝馬2冠のテスコガビー、桜花賞馬のオヤマテスコ、ホースメンテスコ、秋の天皇賞馬サクラユタカオー、距離が3200mだった頃の秋の天皇賞馬ホクトボーイ、宝塚記念を勝ったハギノカムイオー、エリザベス女王杯勝ちのアグネステスコなど、テスコボーイ産駒の活躍馬は枚挙にいとまがない。母父としても優秀で、日本ダービー馬バンブーアトラス、アイネスフウジン、オークス馬のイソノルーブル、マイルCS、安田記念のトロットサンダー、エリザベス女王杯のエリモシック、スプリンターズSのダイタクヤマトら、数多くの名馬にその血を伝えている。

 ネーハイシーザーは、父母それぞれから長所を受け継ぎ、競走馬として花開いたといっても良いだろう。

 栗東の布施正厩舎の管理馬となったネーハイシーザーは、1992年12月に中京のダート1000mの新馬戦でデビューし、初陣を飾っている。年が明けて2月、4戦目のダート1400mで2勝目を挙げた。ここまではダート路線を進んでいたが、5戦目のすみれS(OP)で初めて芝のレースに挑戦し、8着。続く春蘭Sで主戦となる塩村克己騎手と初めてコンビを組み、前走の2200mから1000m短縮の芝1200m戦のレースで勝利した。重賞初挑戦となるはずだった京都4歳特別(GIII)はフレグモーネのため出走取消となり、オープンの白百合S芝2000の4着を挟んで、7月の中日スポーツ賞4歳S(GIII・芝1800m)で、8番人気という低評価を覆し、当時の日本レコードを更新する1分45秒2のタイムを記録して重賞ウイナーとなった。秋には神戸新聞杯(GII・芝2000m)でビワハヤヒデの2着に入り菊花賞(GI・芝3000m)に駒を進めるも、レース中に心房細動を発症して、18着と大差の殿負けで4歳シーズンを終えた。

 5歳シーズンは、スポニチ賞金杯(GIII・芝2000m・3着)から始動し、重賞路線を歩む。春は産経大阪杯(GII・芝2000m)、京阪杯(GIII・芝2000m)で2連勝し、宝塚記念(GI・芝2200m)ではビワハヤヒデに次ぐ2番人気におされるも5着。だがその年の秋シーズンは、毎日王冠(GII・芝1800m)で1番人気に応えて優勝。中日スポーツ賞4歳Sで計時したタイムを上回り、自身の持つ日本レコードを更新。1分44秒6のタイムで快勝した。その勢いのまま出走した秋の天皇賞(GI・芝2000m)では同期のビワハヤヒデやウイニングチケットらを封じて優勝。GI馬の仲間入りを果たした。続く有馬記念(GI・芝2500m)では、その年の3冠馬ナリタブライアンに次ぐ2番人気に推されたものの、9着と敗れる。だが毎日王冠のレコード勝ちや秋の天皇賞勝ちが評価され、その年のJRA賞最優秀父内国産馬に選出されている。

 1995年のシーズンは、産経大阪杯9着、安田記念(GI・芝1600m)6着と掲示板に載れず、14着と大敗した宝塚記念(GI)後に屈腱炎を発症して、休養に入った。1996年、7歳となったネーハイシーザーは産経大阪杯(6着)で復帰し、続く京阪杯で3着と久々に好走し、復活をアピールしたかに思えた。だが屈腱炎が再発して、引退。種牡馬入りが決まった。

 北海道浦河町の日高スタリオンステーションに繋養されたネーハイシーザーは、初年度の種付け無料が話題となり、80頭の種付け申し込みがあった。だが翌年に種付け料が50万となった途端、13頭の繁殖牝馬しか集まらず、現実の厳しさを味わうこととなったが、初年度産駒から東スポ杯3歳S(GIII)2着のヒマラヤンブルーが登場し、2001年には種付け頭数35頭と盛り返した。けれども、2002年には9頭、2003年には8頭と1桁の種付け頭数にとどまり、2004年にはついに0頭となってしまい、翌年に種牡馬登録が抹消されている。

 種牡馬引退後は、BTCの功労馬助成金(現ジャパン・スタッドブック・インターナショナルの引退名馬繋養展示事業)を受けて余生を過ごしていたが、2012年から3万円から2万円に助成金が減額されることが発表され、それまでの繋養先での飼養が困難となり、2011年11月に現在暮らしている荒木牧場に移動している。ネーハイシーザー、21歳の時であった。

「引退した馬の行く末を考えていました」という荒木牧場の荒木貴宏さんは、それまでも引退馬の受け入れを行っていた。その関係で荒木さんにネーハイシーザーの話が持ち込まれたのだという。

「この先どういう形になるかわからないですが、お引き受けしようと思いました」と、荒木さんはネーハイシーザーの受け入れを決めた。

第二のストーリー

▲▼最近のネーハイシーザー、提供、荒木牧場

第二のストーリー

 荒木牧場には、1993年の中山金杯(GIII)、1994年の東京新聞杯(GIII)に優勝し、93年、94年と2年連続秋の天皇賞で2着となったセキテイリュウオーが過ごしていた時期があった。セキテイリュウオーは、2011年4月13日に病のため突然この世を去っているが、ネーハイシーザーが荒木牧場へと移ってきたのは、セキテイリュウオーが亡くなったその年の秋だった。

「馬が自分の寿命を知っているかはわかりませんけど、馬が馬を呼ぶのでしょうかね」(荒木さん)

 実はネーハイシーザーが勝った秋の天皇賞で2着に入ったのが、1歳年上のセキテイリュウオーだったという事実を考えると、荒木さんの言う「馬が馬を呼ぶ」ということも十分あり得るようにも思う。

 ネーハイシーザーは当初、次の預託先が見つかるまでの緊急避難的な措置での繋養だったというが、既に牧場で余生を過ごしていたブライアンズロマン、エスケープハッチ、トーシンブリザードに会いにくるファンの間から、このままネーハイシーザーを置いておいてほしいという声が上がった。そこで荒木さんは、認定NPO法人引退馬協会の事業の1つで、会員を募って運営しているブライアンズタイムの会など、馬を支援する会をサポートする「引退馬ネット」に相談し、荒木牧場功労馬サポーターズを設立。1口、月額2000円で、ネーハイシーザーを支援することができる仕組みとなった。

「今後は行き場をなくした功労馬たちの次の繋養先が見つかるまでの緊急避難などの中間支援や、種牡馬としてウチにいるオリオンザサンクスもサポートホースとして視野に入れています」と、ネーハイシーザー以外の馬たちもサポートしていく予定にもなっている。

 こうしてネーハイシーザーは荒木牧場の一員となり、功労馬としての第三の馬生を新たな場所で送ることとなった。

(つづく)

※次回は12月26日(火)18時公開予定です。

ネーハイシーザーは見学可です。

競走馬ふるさと案内所の下記ページをご参照ください。

http://uma-furusato.com/i_search/detail_farm/_id_1418

※荒木牧場功労馬サポーターズHP

https://akbks.jimdo.com/

※荒木牧場功労馬サポーターズFacebook

https://www.facebook.com/荒木牧場功労馬サポーターズ-1590776117800623/

荒木牧場功労馬サポーターズでは、ただ今会員募集中です。

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佐々木祥恵

北海道旭川市出身。少女マンガ「ロリィの青春」で乗馬に憧れ、テンポイント骨折のニュースを偶然目にして競馬の世界に引き込まれる。大学卒業後、流転の末に1998年優駿エッセイ賞で次席に入賞。これを機にライター業に転身。以来スポーツ紙、競馬雑誌、クラブ法人会報誌等で執筆。netkeiba.comでは、美浦トレセンニュース等を担当。念願叶って以前から関心があった引退馬の余生について、当コラムで連載中。

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