池江泰郎物語

2018年04月20日(金) 17:00

池江泰郎物語

▲ netkeiba Books+ から池江泰郎物語の1章、2章、3章をお届けいたします。

ディープインパクト、メジロマックイーン、ステイゴールド、ゴールドアリュール———池江泰郎が育て上げた馬は、数々のG1タイトルを手にするだけでなく、種牡馬や母の父としても成功を収め、後世に名を残している。名伯楽と称される池江の競馬人生は、馬車に乗る程度しか馬との接点がなかった少年時代に上京し、騎手になることからスタートする。調教師としての礎を築いた池江の半生を振り返りたい。

(文:大恵 陽子)


第1章 教頭先生と競馬

 

「当時はのんびりした、いい時代やったですよ」

 懐かしそうに当時を振り返る池江泰郎の表情は、じつにうれしそうである。池江が生まれた昭和16年当時、宮崎県都城市は本当にのどかな町だった。近くの農家には農耕馬がいて、小学4年生くらいまではバス替わりに馬車が走っていた。駅まで行くときには馬車に揺られて行ったものだった。あるときには、花嫁が馬車に揺られ、村の皆が家から出てきて見送る光景を目にした。

 「あぁ、あの人は結婚するんだなぁ」

 漠然と見ていた景色のなかに馬がいた。しかし、直接馬に触れることはなかったし、生家は農家でもなかった。だから、中学3年生のある日、廊下を歩いていたときに目にしたポスターをさして気にも留めなかった。

 「馬に乗る仕事があるのかぁ」

 職業安定所から送られてきた、馬事公苑騎手養成長期課程生募集のポスターが3学期頃に張り出されていたが、それくらいの関心だった。当時は中学校を卒業したら「金の卵」といわれる時代。同級生の8割ほどが就職したのではないだろうか。とくに池江は父を戦争で亡くしている。親に負担はかけたくない。友人と一緒に試験を受け、大阪でコックになることが決まっていた。二人で一緒に行こう! と意気揚々としている最中だった。突然、教頭先生に呼び出された。何も悪いことはしていないはず…と不思議に思いながら行ってみると、こういわれて驚いた。

 「池江、ポスターを見たか? 馬事公苑に行ってみ」

 小柄な体格と器械体操で培った機敏な動きが騎手に向いているのではないか、と思ったのだろう。戦前には、宮崎競馬場に行ったことがあったほど競馬に造詣の深かった教頭先生は、初めて知る「騎手」という職業のことを詳しく教えてくれた。

 しかし、池江には大阪でコックになる約束をしていた友達がいた。どちらの道を選ぶか大いに頭を悩ませたが、教頭先生の話を聞くにつれ、徐々に興味は「騎手」に移っていった。そして、家に帰って母に相談。ところが、その答えは思わしいものではなかった。

 「わざわざ危険な道を選ばなくても、安定した職業でいいから」

 それは女手一つで生計を立て、育ててくれた母の願いだった。思わぬ母からの反対に池江は葛藤したが、そんな母を説得してくれたのもまた教頭先生だった。家まで来ていろいろと説明し、母も内容は理解してくれた。依然、反対はしていたが、最終的に池江が決断してからは嫌々ながらも納得したのだった。

 そうして宮崎競馬場に試験を受けに行った池江は見事に合格。そして偶然にも、近くの町で器械体操をしていた野元昭もまた宮崎競馬場で受験し、合格していた。程なく、二人は一緒に夜行列車に乗って上京することとなった。横になって休める寝台席は高価だったため、木の椅子に座りながら丸1日以上揺られる長旅ではあったが、これから新しく始まる人生への高揚感で、そんな疲れも吹き飛んだ。

 このとき、あれだけ反対していた母がおにぎりを持たせてくれた心遣いに、池江は子供ながらに感謝していた。長旅のあいだに次第に固くなり、隣の席の人には「そんなに固いのを食べなくても、お弁当が売っているじゃないか」といわれたが、母が最後まで「これが弁当」といって作ってくれたことを考えれば、しばらく食べられなくなるであろう“お袋の味”を残すことなどできなかった。

 そうして27時間ほどかかっただろうか、ようやく東京・渋谷に着いた。親戚に連れられ馬事公苑に行く途中、食堂に入った。そこで生まれて初めてテレビを見た。宮崎にはまだテレビなどなかった。都会の最新家電に釘付けになり、何を食べたのかも覚えていないほど鮮烈な衝撃だった。

 そして馬事公苑で池江は、初めてまともに馬を触ることとなる。これが生涯の仕事となるサラブレッドとのファーストコンタクトであった。乗馬ズボンなるものがあることも、ここで初めて知った。学生服を着ていったため、しばらくは学生服で馬の手入れを行っていたが、教官が古い作業着を持ってきてくれた。こうして池江は、騎手への第一歩を踏み出した。今でこそ、テレビやゲームの影響などで騎手を志す者は少なくないが、当時、競馬界にまったく縁故のない者が飛び込んだのは、池江が初めてのことだった。

(2章につづく)
苦難の競馬学校時代を経て、騎手としてデビュー

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第2章 苦難の競馬学校時代を経て、騎手としてデビュー

 馬事公苑では、まず基本となる馬術を習った。慣れてくるとより実践に近い形でモンキー乗りを習得した。のちに保田隆芳がアメリカから持ち帰ったような短い鐙で、風の抵抗を防ぐために小さく体を折り畳んだそれとは少し違ったが、いずれにせよ天神乗りはもう誰も教えられていない時代だった。

 一方、同期生のなかには我流で乗馬経験のある人が多かった。入学した時点ですでに経験者と差ができていたが、教官はこういった。

 「キミは真っ白だからいいんだよ。私のいう通りにやりなさい」

 その言葉を信じた。周りの同期たちがいうことは右から左に聞き流し、ただひたすら教官の教えを守った。そうして池江は馬事公苑で、あくる日もあくる日もひたすら訓練に明け暮れた。

 そんな池江が、騎手になる意をさらに強くする出来事があった。6月にみんなで行った東京競馬場での日本ダービー観戦である。池江にとっては初めての競馬場、初めてのダービーだった。東府中駅で電車を降り、テクテク歩いて東門を入るとそこには尾形藤吉厩舎や藤本冨良厩舎といった名門が居並んでいた。道路の両側は欅並木になっている。

 「まずは、ここで騎手になることを目指さないと」

 池江は初めて競馬場の土を踏みしめたとき、改めて決意を固くした。初めて目の前で観戦した日本ダービーを制したのはハクチカラだった。そしてこの馬はその後、池江にとって思い出深い馬になったが、その理由はあとで記すことにしよう。

 冬の冷え込みが厳しくなる頃、所属厩舎が決まり、春を迎えると池江は1年の課程を修了し、卒業した。最後にみんなが見ている前で「この馬を乗りこなせたら、どんな馬でも乗れる」といわれていたヤンチャな馬に騎乗した。入学当初は馬に近づけなかった池江が果たして乗りこなせるのか、周囲は半信半疑だったが、見事に乗りこなすとどこからともなく拍手が起こった。その自信を胸に、京都競馬場に厩舎を構える相羽仙一のもとに弟子入りした。

 当時、トレーニングセンターはまだなく、競馬場の脇に厩舎が構えられていた。師弟関係が今よりも厳しい時代だった。師匠の相羽は明治生まれで、池江より40歳ほど年上だった。兄弟子には20歳離れた浅見国一がいただけで、年の近い者はいなかった。恐らく、相羽がそれだけ厳しかったのだろう。池江は、騎手としてのことをほとんど浅見から教わった。

 騎手としてデビューしたのは、天皇皇后両陛下が御結婚された昭和34年のこと。当時は騎手にも担当馬がいて、馬房掃除など普段の世話もしていた。池江は、ヤマヒサというアラブの牝馬を担当していた。今はほとんど見かけなくなったが、馬を洗うときには、もち米の寝藁を柔らかくして束ねた物を使っていた。こうするとマッサージにもなって血行が巡り、毛ヅヤも良くなった。そうして毎日、調教も厩舎作業も一生懸命頑張った。しかし、初勝利はなかなか訪れない。3月から騎乗を始め、同期で一番遅い初勝利は9月だった。

 初勝利に導いてくれたのは、担当していたヤマヒサだった。当時はたてがみを編むことが多く、池江もヤマヒサのたてがみを丁寧に編み、ボンボンをつけたりと、レース直前までヤマヒサのそばで過ごした。レースでは人気を分け合ったライバルに7、8馬身差をつけての圧勝。飛び上がるほどうれしかった。うれしさのあまり、勝負服を着たまま厩舎に走って帰ると、池江の代わりにレース後の手入れをしてくれていた厩務員に「僕がやるよ」といい、ヤマヒサの体を洗った。レースで疲れたヤマヒサの体を労わり、何度も撫でては「ありがとう、ありがとう」と口にした。昭和34年第6回京都1日目のことだった。今でも初勝利の写真は大切に保管している。

 そうしてデビューから10年ほど経った昭和44年11月、栗東トレーニングセンターが開場。すでに師匠の相羽は亡くなり、兄弟子の浅見が騎手を引退し跡を継いでいた。京都競馬場にあった浅見厩舎が、栗東トレーニングセンターに移動したのは開場した翌年12月のことだった。

 京都も寒いところだったが、栗東の寒さも堪えた。朝の調教では「手袋をすると手綱を握る手の感覚が鈍るから、真冬でも素手で乗れ」といわれていたが、どうしても手がかじかんで感覚がなくなってしまう。今のように滑り止めのついた手袋もなかったため、女性用の薄い布手袋をはめて、その上から手術用のゴム手袋を重ねた。そうすると寒さが防げ、なおかつ手綱が滑ることもなかった。それが当時、冬の調教で当たり前のように見られた光景だった。

池江泰郎物語

(3章につづく)
ハクチカラとの再会

▲ netkeiba Books+ から池江泰郎物語の1章、2章、3章をお届けいたします。(写真:'56日本ダービーを制したハクチカラ 毎日新聞社/アフロ)

第3章 ハクチカラとの再会

昭和51年、池江はインドに渡った。第13回アジア競馬会議に出席するためだった。中央の騎手代表が池江、地方の騎手代表は赤間清松だった。イギリスの流れを汲んだインドの競馬場は広大で、芝コースは1周2400mほどあっただろうか。設備も整っていた。それらを8mmフィルムで撮影し、記録に残した。

 競馬場視察や懇親会を兼ねたダンスパーティーに出席するなど、行程をこなしていたある日、とある牧場を訪問する機会に恵まれた。緑に覆われた放牧地のなかには1つの小屋があり、入口上部に書かれているアルファベットを読むにつれ、池江の胸中には懐かしさがこみあげてきた。

 「HAKUCHIKARA」

 ハクチカラ———そう、池江が初めて競馬場に行った日、日本ダービーを制覇した馬だった。ハクチカラは日本ダービー制覇後、アメリカに遠征し、ワシントンバーステーハンデキャップを制覇。引退後は日本で種牡馬入りしていたが、晩年、インドに種牡馬として寄贈されていた。池江はハクチカラとの不思議な縁がたまらなくうれしくて、帰国するとすぐさまハクチカラの主戦を務めた保田に電話をした。

 「保田先生、ハクチカラと会ってきましたよ」
 「いろいろ話は聞いているけど、元気にしていたか?」
 「はい、元気やったですよ。大事にされていました」

 この話に保田も大いに喜んだ。池江が帰国してしばらくしてハクチカラは亡くなったが、最後の最後に思い出の馬にインドで再会できたのもまた不思議な縁に思えた。

(続きは 『netkeiba Books+』 で)


池江泰郎物語
  1. 第1章 教頭先生と競馬”
  2. 第2章 苦難の競馬学校時代を経て、騎手としてデビュー
  3. 第3章 ハクチカラとの再会
  4. 第4章 調教師への転身
  5. 第5章 叶えた親子三代による盾制覇
  6. 第6章 ディープインパクトとの日々
  7. 第7章 ステイゴールドとの想い出
  8. 第8章 馬主、そしてアドバイザーとして

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