馬のマッサージ

2020年08月27日(木) 12:00

 馬のマッサージ。日本にも、プロとして、競走馬や乗馬などにマッサージをしている人が複数いることは知っていた。古くは、元騎手・調教師の故・矢野幸夫さんが、馬の整体をしていたことが知られている。それはマッサージというより指圧で、木槌も用いていた。メキシコで施術したところ、現地の主催者に感謝され、矢野さんの名を冠したレースが行われたほどだという。

 今回、馬のマッサージを見せてくれた佐山由紀子さんは、私が贔屓にしていたスマイルジャックやベンチャーナインにも施術したことのある人だ。両馬を管理した小桧山悟調教師の紹介で面識はあったのだが、マッサージするところを見せてもらったのは、今回が初めてだった。

 場所は、美浦トレセンにほど近い西山牧場阿見分場。

 モデルというか、マッサージを受けたのは、藤田菜七子騎手が2018年8月25日に通算35勝目を挙げ、JRA女性騎手最多勝記録を更新したときのパートナーでもあるセイウンリリシイ(牝5歳、父ダイワメジャー、美浦・水野貴広厩舎、西山茂行氏所有)であった。

今回マッサージを受けたセイウンリリシイ。過去にも佐山さんにマッサージしてもらったことがある。

 佐山さんは、大学卒業後、3年間の会社勤めを経てオーストラリアに競馬留学した。通った学校の同じクラスには、中学を卒業したばかりの藤井勘一郎騎手がいたという。

 在学中、アメリカから馬のマッサージの講師が来て、その講習会を受けた。2000年1月のことだった。

 帰国後、乗馬クラブや地方競馬の馬などに仕事として施術するようになり、2003年の春、縁あって小桧山調教師にここ西山牧場阿見分場を紹介してもらい、本格的に競走馬のマッサージを手がけるようになった。

マッサージの前に、馬の歩様をスマホで動画撮影する。左が佐山さん

 今回は、月曜日から金曜日まで5日間ここで施術したうちの金曜日に取材した。

 1頭にかける時間は、競走馬だと1時間ぐらい、乗馬だと1時間半から2時間ぐらいが普通だという。

「マッサージの基本的な目的は、心身をリラックスさせることです。競走馬の場合、効果が成績に結びつくなど実証できないのでつらいのですが、乗馬は、リラックスの度合いに動きのよさが比例することが多いですね」

 洗い場など、屋外でつないだ状態で施術することが多いというが、ここでは馬房のなかで施術している。

セイウンリリシイに施術開始。カイバを食べているとき、スタッフに口を持ってもらってマッサージする。

 以前は、頭部に近いところからマッサージしていたというが、今は頭部から遠い部位からしている。それは、人間のマッサージ師の手法を取り入れたもので、頭部から遠い部位からほぐしていくと、その後、頭部に近い部位をマッサージするとき、よりほぐれて効果が高まるからだという。

 マッサージという言葉から、大きく筋肉を揉みほぐしたり、ときには体重をかけて馬体を押し込んだりするのかと思いきや、そうではない。

 佐山さんの動きのほとんどは手首から先の小さなものだ。凝っているところや、痛みを感じているところに手のひらや指を、それほど強くなく押し当てている。そんな佐山さんの手のちょっとした動きだけで、馬が耳を絞ったり、目をトロンとさせたり、ときには振り向いて文句ありげな表情をしたりするのが面白い。上手い騎手が、小さな扶助で馬を大きく動かすことにも通じているように感じた。

佐山さんにマッサージされて目をトロンとさせるセイウンリリシイ

 セイウンリリシイはとても性格のいい馬で、一見して部外者とわかる私にも、そっと顔を寄せてくる。それでも牝馬は担当厩務員にさえお腹を触らせようとしなかったりと、繊細で神経質なのが普通だ。だから、佐山さんは、マッサージをしながら馬の表情を観察し、「ごめんね、お腹のほう触るよ」などと、たびたび声をかける。

 そして、馬がブルッと鼻を鳴らすと嬉しそうにする。

「これ、気持ちよくて、人間が『はあ』と息をつくようなものです。『グッドリリース』と言うのですが、これを聞くたびに、『ああ、リラックスしてくれている』と自己満足の世界に浸っています(笑)」

 グッドリリースは「心地よい解放感」とでも訳すべきか。

気持ちいいとき、馬はこうして鼻の先が伸びてしまう。

 取材前、佐山さんは「馬のマッサージは単調なので飽きますよ」と言っていたのだが、セイウンリリシイが耳を伏せたり、眠そうな顔になったり……と反応するのを見ていると退屈せず、あっと言う間に1時間以上が過ぎていた。

 佐山さんがここ西山牧場阿見分場でマッサージを始めた当初から見てきた、本間茂場長はこう話す。

「マッサージをしてもらうと、馬が気持ちよさそうにしていますよね。馬だって、どこか痛いところがあるだろうし、ストレスのない時間も必要ですから、やったほうがいいと思います」

 セイウンリリシイには、去年、3、4回佐山さんがマッサージをしたことがあり、それ以来だったという。

マッサージ終了後も、馬体と歩様のチェックのため動画を撮影する。

 施術前後に常歩の動画を撮影するほか、真横からも写真を撮り、マッサージによってどう変化したかの資料にしている。

 セイウンリリシイは、施術前からカリカリした感じではなかったが、施術後はよりリラックスし、歩様もスムーズで、表情もやわらかくなり、さらに愛らしく見えた。

 見ていた私の疲れまでほぐれてしまう、楽しい時間だった。

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島田明宏

作家。1964年札幌生まれ。Number、優駿、うまレターほかに寄稿。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』(2011年度JRA賞馬事文化賞受賞作)など多数。netkeiba初出の小説『絆〜走れ奇跡の子馬〜』が2017年にドラマ化された。最新刊は競馬ミステリーシリーズ第6弾『ブリーダーズ・ロマン』。プロフィールイラストはよしだみほ画伯。バナーのポートレート撮影は桂伸也カメラマン。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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