ガバナンス不在の競馬界(後編) ――笠松、岩手、JRA「刑事事件未満」に打つ手なし

2021年04月27日(火) 18:02

 笠松と岩手は今世紀の一時期、存廃の岐路に立たされた。岩手は現在の盛岡競馬場移転新設費などで巨額の累積赤字を抱え、07年に県からの330億円の救済融資案が1度は議会で否決される危機的局面を迎えた。4日後に出された県の負担額を減らす修正案に、議員1人が賛成に回って賛否が逆転。辛くも廃止を免れた。4年後の11年には東日本大震災が直撃。JRAが同年10月に看板レースの南部杯を東京で肩代わり開催するなど、中央、地方他地区が支援に尽力して命脈を保った。

 笠松は04年に売り上げ低下で基金が底をつき、岐阜県の設置した第三者委員会では、廃止論が優勢となった。だが、北海道・日高の生産者の経営参加などの再建案が出され、最終的に7億円の経費削減案を競馬関係者が受諾して1年の期限つき存続が決まった。「単年度赤字なら即廃止」との条件がつけられ、組合管理者は知事から笠松町長に交代した。県が運営の一線から後退したのは、次の危機の際のコスト負担を逃れる意図もあった。

方向は真逆もガバナンスに欠陥

 辛くも生き残ったとは言え、賞金・手当の大幅削減で現場は疲弊した。笠松の騎手・調教師の馬券購入は、収入の少なさが遠因だろう。中心人物2人は最多勝争いの常連で、他騎手への影響力も強く、「汚染」を広げた。施行者側は人口2万人台の自治体(笠松町、岐南町)が前面に立つ形となり、現場の掌握力はより脆弱になった。当時の調整ルームの事情を知る関係者は「入口で携帯の保有を申告して提出した騎手は1人だけ。あとは『持っていない』と素通りしていた」と話す。

 現場の疲弊という状況は同じでも、岩手には笠松と真逆の構造があった。危機に陥る前は、中興の祖と言われた藤原正紀・組合事務局長(故人)の下で様々な新機軸を打ち出し、「地方競馬の優等生」と呼ばれた時期もあったが、バブル崩壊で積極路線が裏目に出て、窮地に追い込まれた。

 存廃論議の過程では、事業の透明性、持続可能性に関するチェック機能が働かない実態が表面化。岩手は地方では珍しく、藤原氏のような組合生え抜きが主導の体制。うまく回っていた分、外部の観点が反映されにくかった。危機が訪れると当面の生き残りが優先され、震災という非常事態も重なり、組織体質の見直し論は後景に退いた。

警察頼りの「公正競馬」

 笠松も岩手も警察の捜査が問題に一応の区切りをつけた。関係者の馬券購入や八百長、薬物混入は競馬法に触れる。だが、笠松で捜査が加速したのは国税当局による申告漏れの指摘後で、敗退行為は立件に至らなかった。岩手の問題も、高い専門性を持つ研究機関が「可能性は極めて低い」としたシナリオを根拠に「事件性なし」と結論づけており、実質的には迷宮入りである。今回に限らず、近年は薬物が検出されても原因不明で捜査を終結したケースが目立つ。警察の意思と捜査能力にはさほど期待できないのが現実である。・・・

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野元賢一

1964年1月19日、東京都出身。87年4月、毎日新聞に入社。長野支局を経て、91年から東京本社運動部に移り、競馬のほか一般スポーツ、プロ野球、サッカーなどを担当。96年から日本経済新聞東京本社運動部に移り、関東の競馬担当記者として現在に至る。ラジオNIKKEIの中央競馬実況中継(土曜日)解説。著書に「競馬よ」(日本経済新聞出版)。

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