63年越しの偉業だったマルシュロレーヌ

2022年01月12日(水) 20:08 1 6

日本馬による戦後初めての海外遠征が行われたのは、1958(昭和33)年のことだった。東京タワーが完成した年である。

遠征したのは、その2年前に日本ダービーを制したハクチカラ。主戦騎手の保田隆芳とともに、羽田空港からチャーター機でロサンゼルスへと渡った。日本で馬を空輸するのは初めてのことで、人間用の旅客機の座席を取り払い、馬をつなぐスペースをつくった。日本ダービーの1着賞金が200万円の時代に、遠征費の総額は1000万円ほどにもなった。

そのハクチカラの渡米初戦は、58年7月2日、ハリウッドパーク競馬場(2013年に閉場)のダート1700mで行われたアローワンス(一般戦)だった。9頭立てのこのレースで、保田が乗ったハクチカラは、勝ち馬から15馬身ほど離されたしんがりに終わった。日本のダービー馬がなぜダートのレースに出たのか不思議に思われるかもしれないが、アメリカでは、コース幅を広く取れて、観客席に近い外側にダートコースがあり、その内側に芝コースがある。そう、日本と逆で、ダートが「メイントラック」なのだ。クラシックはすべてダートで、そのほかの高額賞金レースも、ダートのほうが圧倒的に多い。
ハクチカラは保田の帰国後もアメリカに残り、59年2月、サンタアニタパーク競馬場の芝2400mで行われたワシントンバースデーハンデキャップで日本馬による海外重賞初制覇を達成。芝では初めての海外遠征から結果を出していたのだ。

そのアメリカのメイントラックであるダートのGI中のGIであるBC、それも、1984年の創設当初からあったBCディスタフを、日本で生まれ育ったマルシュロレーヌが勝った。ハクチカラが第一歩を踏みしめてから63年後に達成された、歴史的快挙であった。

だからといって、その2時間前に芝2200mのBCフィリー&メアターフで日本馬によるBC初制覇を果たしたラヴズオンリーユー(牝6歳、父ディープインパクト、栗東・矢作厩舎)の功績が色あせることはない。が、かねてよりヨーロッパの馬が勝っていたこのレースは、もともと芝をメイントラックとする外国の馬を呼ぶための舞台とも言えた。それに対して、マルシュロレーヌが打ち壊したのは、まさに「北米の牙城」だった。

ネタ元記事の最後にも書かれておりますが、アメリカの年度代表表彰であるエクリプス賞にノミネートされて欲しいですね。

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