2014年03月13日(木) 18:00
◆憧れたのはアメリカ伝説の名手
2014年2月23日。京都11R・洛陽Sの8着(エーシンミラージュ)を最後に、上村洋行は22年間のジョッキー生活に幕を下ろした。通算成績7928戦580勝。初年度から重賞を制し(92年京王杯AH・トシグリーン)、年間40勝を挙げてJRA賞最多勝利新人騎手のタイトルを獲得。華々しいスタートを切った上村だったが、その後の騎手人生は、実にもどかしいものだった。
とはいえ、ジョッキー・上村洋行のパートナーといえば? という問いかけに対し、答えに窮する競馬ファンはおそらくいないだろう。新旧の競馬ファンによって挙がる馬名は違うかもしれない。しかし、上村の騎手人生には、その時代ごとに強力なアイコンが存在する。山あり谷ありの騎手人生を彩った名馬たち──ここでは、そんなパートナーたちとの思い出を中心に、濃密な22年間を振り返った。
師匠の柳田先生は昔気質の先生でしたから、そりゃあ厳しかったですよ。僕はとくにヤンチャだったから、私生活についてはずいぶん怒られました。「20歳までは車の免許を取ったらアカン」って言われていたのに、こっそり免許を取って、車の購入も勝手に契約してしまって。当時、収入のほとんどは先生が管理してくれていたので、「すみません。車を買いたいので、お金を下ろしてもらえませんか?」って恐る恐るお願いしたら、「バカヤロー!」って思いっ切り怒鳴られましたね。
でも、レースに関しては、全面的にバックアップしてくれました。トシグリーンの京王杯AHにしても、当時、中山で一度も騎乗したことのなかった僕を乗せてくださって。中山自体、22年間を通してそれほど数は乗っていませんが、GIを勝ったのも中山でしたし、縁があったのかもしれませんね。トシグリーンの京王杯は、それほど勝ち負けを意識せずに乗ったレースでした。この馬の競馬に徹しようと思って中団でジッとしていたんですが、直線に向いたら、どんどん前との距離が縮まっていって。あれ? と思いながらゴール板を過ぎたら、勝っていたみたいな(笑)。
競馬学校時代から、その騎乗技術の高さは教官たちのお墨付きだった上村。重賞制覇に新人賞獲得と、初年度の活躍はその評価を裏付けたといっていい。
最初から自信があったわけではありません。評価していただいていたのは知っていましたし、もちろん技術を磨くことが大事なのはわかっていましたが、僕はとにかくかっこよく乗りたかったんです。その思いだけは、最後まで変わりませんでしたね。
競馬学校の事務所の壁に、ゲイリー・スティーヴンス(アメリカ競馬の殿堂ホールオブフェイムに選出された偉大な騎手。引退と復帰を繰り返しつつも、2013年、7年のブランクを経て、50歳にしてGIプリークネスSを制覇)を描いた写真のような絵が飾ってあったんです。騎乗中の背中に水が入ったコップを置いても、その水がこぼれることはないと言われるほど、きれいに乗るジョッキーで。その絵のフォームも本当に美しくて、今でも鮮明に覚えています。だから、当時の僕は誰かに憧れていたというより、その絵に憧れて、かっこよく乗ることを目指したんです。
◆「ナリタブライアンを負かす」
2年目はさらに順調に勝ち星を積み重ね、年間53勝をマーク。そんな勢いに乗るなかで出会ったのが、ナムラコクオーだった。翌年のダービーでは、ナリタブライアンに次ぐ2番人気に支持された。もちろん、鞍上は上村。デビュー3年目のジョッキーがダービーの有力馬を任されることなど、現在はもちろん、当時も異例だったといっていい。
ナムラコクオーという馬は、デビュー当時はそれほど評価の高い馬ではなかったんです。デビュー戦もダートの1400mで、しばらくはダートを使っていましたからね。2歳の12月に阪神のダート1200mの500万を勝って、ラジオたんぱ杯3歳Sに挑戦したんですが、初めての芝だったので、その可能性は未知数でした。でも、いざ走らせてみたら4馬身もの差をつけて勝ってくれて。年明けのシンザン記念は、さらに着差を広げて7馬身差の圧勝でしたからね。
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