2015年06月01日(月) 18:00
【前回までのあらすじ】 容貌魁偉の調教師・徳田伊次郎、32歳。亡き父の跡を継ぎ、南関東で6馬房の厩舎を構えている。厩舎は三流で、従業員は無気力。伊次郎は厩舎改革にとりかかり、曾祖父の「ヘン徳」こと徳田伊三郎の末裔ならではの「単機能」の戦い方をする、と宣言した。
伊次郎は、「カフェバー・ほころび」のカウンターで、この夜、何度目かわからないほどのため息をついた。ウイスキーベースのカクテル「しがらみ」がダウンライトの灯を鈍く反射し、甘い蜜のように見える。
カウンターの奥では、伊次郎と同年代のマスターが、グラスを丁寧に拭いている。
さっき、珍しく別の客が来た。これまた同年代とおぼしき男だった。男は、伊次郎と同じようにため息をつきながら黙って酒を飲み、帰って行った。
「ここはため息の墓場だな」
伊次郎がそう言うと、マスターは白い歯を見せた。
「墓場ですか。ため息が生まれる場所になるよりは、嬉しいです」 「そういうもんかね」と、伊次郎はしがらみを飲み干した。
「親父がよく言っていました。ここを楽しく飲める店にしちゃダメだ、と」 「ほう、どうしてだ」 「楽しさの形、幸せの形というのは人によってそれぞれでしょう。だから、いつ、どんなときでも味わえるわけではない。なのに、それを目指したら、こんな店はあっと言う間に潰れてしまう。そう繰り返していました」 「なるほどな」
「けれども、悲しみや、つらさの形というのは、いつの時代の、どんな人のものでも似ている。だから、そこに向き合う店にしなきゃいけない、と」 「それで先代は、『店名は変えるな』と遺言したわけか」 「だと思います」
「しかし、落ち込んで過ごす場所にしては、料理も飲み物も、味がよすぎるぞ」 「褒めてもらったのは初めてですね」 「そうか?」
「嬉しくて舞い上がっている人は、何を口にしても美味しく感じるでしょうが、そうじゃない人の喉でも自然に通るものを出すようにしています」 「それも親父さんが言ってたのか」 「はい」
「ああだこうだ言う人には見えなかったけどな」 「口だけじゃなく、先に手が出るほうだったので、怖くて従うしかなかったんです」とマスターは苦笑した。
「わからないもんだな、人は。ウチの親父は何も言わない男だったが、死ぬ前、『厩舎で使っている人間は絶対に切るな』とだけ言ってたんだ」 「大事にしていたんでしょうね、その人たちを」 「ああ、そのようだ」と伊次郎が頷くと、マスターがグラスを拭く手を止めた。
「言うべきかどうか迷っていたのですが、先生のところの可愛らしい女性……」 「ん? ウチに可愛い娘なんているか」と伊次郎は首をかしげた。
「髪が茶色く、ハスキーな声の娘です」 「なんだ、ゆり子のことか。彼女がどうかしたのか」・・・
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島田明宏
作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊ギャロップ、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。趣味は読書と読売巨人軍の応援。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。最新刊はテレビドラマ原作小説『絆〜走れ奇跡の子馬』。 関連サイト:島田明宏Web事務所
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■第15回「単機能」
■第14回「光明」
キズナらしく
■第8回「変化」
■第6回「転身」
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