■第25回「刺激」

2015年08月03日(月) 18:00

【前回までのあらすじ】
容貌魁偉の調教師・徳田伊次郎、32歳。亡き父の跡を継ぎ、南関東で6馬房の厩舎を構えている。厩舎は三流で、従業員は無気力。伊次郎は厩舎改革にとりかかる。その1番手としてレースに出た牝馬のシェリーラブが軽快に逃げ切り、厩舎初勝利を挙げた。次に出走したトクマルは最後に外にヨレて2着。急にレースぶりがよくなった徳田厩舎に、一流騎手の矢島が売り込みをかけてきた。思いもよらぬ申し出に、伊次郎の心は揺れた。


「なあ、センさん。矢島がうちの馬に乗りたいって営業かけてきたって、本当か?」

 大仲で、妻の美香が淹れたアイスコーヒーの「ほころびブレンド」を飲みながら、宇野が訊いた。

「んだ。トクマルのレースのあと、矢島が、自分さ主戦にする気はねえかって若先生に言ったらしいべさ」

「あのオッサンが乗るのはいいけど、藤村君はどうなるのよ」と、ゆり子がガラガラ声で口を尖らせた。

「心配ねえべ。藤村は藤村で、ここんとこよその厩舎から評価されて、乗り鞍も増えてるからよ」

「ふーん。センさん、意外と冷たいんだね」

「そうでねえ。うちでも、よそでも競争してこそ、藤村も、もっといい乗り役になるんだから」

「でも、ムーちゃんには、矢島みたいに当たりのキツい騎手には乗ってもらいたくない」

「だども、決めんのは調教師だ」

「なら、オーナーに直談判しようかな」

「そったらことしたら……」とセンさんが言いかけたとき、伊次郎が大仲に入ってきた。

 センさんも、ゆり子も、宇野夫妻もしゃべるのをやめ、大仲はしんとした。

 話が聞こえていたのかどうか、いつもと同じ仏頂面の伊次郎の顔からはまったくわからない。

 伊次郎は、黙ったまま、ホワイトボードにペンを走らせた。・・・

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島田明宏

作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊ギャロップ、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。趣味は読書と読売巨人軍の応援。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。最新刊はテレビドラマ原作小説『絆〜走れ奇跡の子馬』。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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